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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
D0014
資料群名
上坂一夫家文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡織田村,織田村織田,越前町織田(織田町)
資料の年代
1325年(正中2)~1894年(明治27)
資料目録件数
304
組織歴および履歴
織田村は劒社を中心として織田盆地の中央に位置し、近世になるとはじめ福井藩領、1624年(寛永1)から82年(天和2)まで松平氏大野藩領、以後、幕末まで土井氏大野藩領となった。劒社領30石を含めると田方1,298石余、畑方455石余の1,754石余で、近世前期には大明神村・織田大明神村とも称されていた。
当村内の「劒大明神領」は寺家村として独立して扱われることもあった。
大野藩は、当村を2組(寛政年間までは3組)に均分し、それぞれに村役人を置き、各組には庄屋名をつけた。
通史編3、資料編5解題によると、当家は劒神社の社家(神職)の1つであり、当家を社人惣代(大祝、老祝)として権祝、執当、政所以下の社人の総数25人は、寺家(社僧)が時代が下がるにつれて減少したのに対し、近世を通じ変化していないという。
当家文書のなかで神主名に上坂の姓がつくものとしては、年次であげると1811年(文化8)に上坂筑前掾忌部正久、上坂多仲、15年(文化12)に上坂多仲、上坂宇内、18年(文政1)に上坂越中、翌年に上坂越中、上坂筑前、23年(文政6)に上坂大和、翌年・翌々年に神主惣代として上坂右門、38年(天保9)に社家惣代として上坂左京、94年(明治27)に社掌として上坂津右衛門がある。ちなみに劒神社文書のなかには1688年(貞享5)に臨番神主として上坂内匠忌部正久、祠官として上坂壱岐守(壱岐正)正則の名がある。上坂の姓を名乗る社人が同時期に2人いたことがあったことも知られる。
劒神社文書には、1748年(延享5)に大祝として織田堤村の又左衛門の名がみえるが、この人物が上坂家の人物かどうか明確ではなく(又左衛門は当家の屋号かどうか未確認)、両家文書からは江戸中期を除く前期と後期にしか上坂姓を名乗る社人は登場しない。
その理由は、当家文書1795年(寛政7)の「(劒大明神神職跡ニ付願状)」の一節に「神職之儀ハ往古ヨリ御領分他領之内二十五人之社人之中老人ヨリ社職相勤」とあり、神職は社人のなかで老人が輪番的につとめていることが知られ、林河内をめぐる織田村・寺家村の争論相手の大王丸村・四杉村・下山中村の1819年(文政2)の返答書の一節にも「神主之儀ハ百姓弐拾五人六拾以上之老人廻リ譲リ之儀ニ而御座候」とある。上坂姓を名乗る社人が登場しないのはこのことと関連があるらしい。
この神職の輪番は、1811年(文化8)の当家文書「神主官職奉加帳前書」で述べられているところの、貞享頃まで吉田家から位階を免じられていたが、長々中絶し、本年より再び神主職免許をもらうことになったというなかの長々中絶していた期間に符合すると考えられる。
当村内の「劒大明神領」は寺家村として独立して扱われることもあった。
大野藩は、当村を2組(寛政年間までは3組)に均分し、それぞれに村役人を置き、各組には庄屋名をつけた。
通史編3、資料編5解題によると、当家は劒神社の社家(神職)の1つであり、当家を社人惣代(大祝、老祝)として権祝、執当、政所以下の社人の総数25人は、寺家(社僧)が時代が下がるにつれて減少したのに対し、近世を通じ変化していないという。
当家文書のなかで神主名に上坂の姓がつくものとしては、年次であげると1811年(文化8)に上坂筑前掾忌部正久、上坂多仲、15年(文化12)に上坂多仲、上坂宇内、18年(文政1)に上坂越中、翌年に上坂越中、上坂筑前、23年(文政6)に上坂大和、翌年・翌々年に神主惣代として上坂右門、38年(天保9)に社家惣代として上坂左京、94年(明治27)に社掌として上坂津右衛門がある。ちなみに劒神社文書のなかには1688年(貞享5)に臨番神主として上坂内匠忌部正久、祠官として上坂壱岐守(壱岐正)正則の名がある。上坂の姓を名乗る社人が同時期に2人いたことがあったことも知られる。
劒神社文書には、1748年(延享5)に大祝として織田堤村の又左衛門の名がみえるが、この人物が上坂家の人物かどうか明確ではなく(又左衛門は当家の屋号かどうか未確認)、両家文書からは江戸中期を除く前期と後期にしか上坂姓を名乗る社人は登場しない。
その理由は、当家文書1795年(寛政7)の「(劒大明神神職跡ニ付願状)」の一節に「神職之儀ハ往古ヨリ御領分他領之内二十五人之社人之中老人ヨリ社職相勤」とあり、神職は社人のなかで老人が輪番的につとめていることが知られ、林河内をめぐる織田村・寺家村の争論相手の大王丸村・四杉村・下山中村の1819年(文政2)の返答書の一節にも「神主之儀ハ百姓弐拾五人六拾以上之老人廻リ譲リ之儀ニ而御座候」とある。上坂姓を名乗る社人が登場しないのはこのことと関連があるらしい。
この神職の輪番は、1811年(文化8)の当家文書「神主官職奉加帳前書」で述べられているところの、貞享頃まで吉田家から位階を免じられていたが、長々中絶し、本年より再び神主職免許をもらうことになったというなかの長々中絶していた期間に符合すると考えられる。
資料群の概要
撮影文書は300点余で、劒神社関係のものが多い。1497年(明応6)-1637年(寛永14)ごろまでの劒大明神関係の禁制・定書・下知状・寄進状・安堵状・打渡状などを見開き頁ごとに貼り付けた帳面のなかには、柴田勝家の検地後、1577年(天正5)3月27日に織田寺に大明神領1489石余が引き渡されていることを示す「柴田勝家神領打渡状写」や、劒神社に伝存しない1600年(慶長5)の「堀尾吉晴定書写」などがある。
そのほかの劒神社関係のものとしては、「劒神社盛衰記」、明神台所御用留関係、神職関係、大祭関係、明神別当の神前院や他の寺家の後住願状関係、明神・寺家の修復関係、神領収納米関係などがある。大祭関係には「大祭左使帳弐通、大祭氏子五十三村辺廻村役調印帖枚通」があり、毎年9月9・10日の大祭の前に氏子惣代から氏子53か村に触が廻され、御神灯や山鉾を先例のとおり寄進すべきことを伝え、社参のさいの喧嘩・口論や神輿への無礼を戒めていたことが知られる。
その他として、織田村・三崎村の太閤検地帳、越知神社に伝存しない「朝倉義景黒印状写」などを収めた越知神社文書関係冊子、大野藩法令、越前歴代藩主をまとめた「越前家伝」、借用証文、織田村・寺家村の村方文書関係、林河内争論関係などがある。
借用証文のなかには、天保年間に織田村難渋により、小曽原の伊右衛門や大樟浦の木下伝右衛門から借金し、高反別に割っていることを記録したものがある。
織田村・寺家村の村方文書関係には、往来手形、養子願証文、嫁取宗旨書上・書除願状、庄屋役御免願状、天保年間等に難渋により劒大明神の杉伐木・売木願状などがある。
林河内争論関係は、大野藩領の織田村・寺家村・劒大明神側と福井藩預所の四杉村・大王丸村、福井藩領の下山中村側との間で入会地の林河内をめぐる文政年間の争論を記録したもので、「河内争論訴答記録」の冊子をはじめ表題なしの冊子など3冊のほか、他の当家文書中にも散見される。
この争論は、1818年(文政1)に織田村側が干魃時の取決めとして林河内の水落としを行った際に、当地に下山中村側が植えてあった稲の青田刈りをしたことに端を発する。
翌年に内済するものの、1821年(文政4)に破談となり、これ以降18年以来の争論がむしかえされ、織田村側は林河内は神領である、下山中村側は隠田を掘り広げている、我らは水落としに連れだっていっただけで徒党を組んでいないし邪魔な立木等を苅っただけ等の主張を繰り広げ、対する下山中村側は織田村側は御法度の徒党を組んで狼藉をはたらいた、神領というなら証拠を見せよ、隠田というならなぜ今まで訴えなかったか等の主張を繰り広げた。
この争論は、織田村側が1823年(文政6)に再び林河内の水落としと称して多数の農民で下山中村側が植えてあった稲の青田刈りをしたことで織田村側に不利になったようで、あつかい人によって織田村側が代官・奉行や役所に詫状を出す方向での内済となり、水落としをする際にあらかじめ出す廻し文の内容も改めて25年(文政8)に一応収束する。
その後、明治初年ごろまでの双方確認による林河内での田切開規程や水落とし立ち会い願い、入会地としての双方確認の文書が見られる。
近代以降のものとしては、前述したように、林河内入会山規程・林河内議定証などのほか、1872年(明治5)劒神社領地が上地となるにあたり、足羽県に対し織田村と寺家村の合併願い・劒神社境内地を織田村に入れて引高とする願い、明治9-10年の県と越前7郡区間等の諸文書、94年(明治27)の「社明細帳」、年不詳の「福井県西田中警察署所轄内外之全図」などがある。
否撮カードは、「若狭郡県志」などの書籍、1793-1863年「寺家村神領入払御勘定帳」32冊、絵図を含む約150点である。
そのほかの劒神社関係のものとしては、「劒神社盛衰記」、明神台所御用留関係、神職関係、大祭関係、明神別当の神前院や他の寺家の後住願状関係、明神・寺家の修復関係、神領収納米関係などがある。大祭関係には「大祭左使帳弐通、大祭氏子五十三村辺廻村役調印帖枚通」があり、毎年9月9・10日の大祭の前に氏子惣代から氏子53か村に触が廻され、御神灯や山鉾を先例のとおり寄進すべきことを伝え、社参のさいの喧嘩・口論や神輿への無礼を戒めていたことが知られる。
その他として、織田村・三崎村の太閤検地帳、越知神社に伝存しない「朝倉義景黒印状写」などを収めた越知神社文書関係冊子、大野藩法令、越前歴代藩主をまとめた「越前家伝」、借用証文、織田村・寺家村の村方文書関係、林河内争論関係などがある。
借用証文のなかには、天保年間に織田村難渋により、小曽原の伊右衛門や大樟浦の木下伝右衛門から借金し、高反別に割っていることを記録したものがある。
織田村・寺家村の村方文書関係には、往来手形、養子願証文、嫁取宗旨書上・書除願状、庄屋役御免願状、天保年間等に難渋により劒大明神の杉伐木・売木願状などがある。
林河内争論関係は、大野藩領の織田村・寺家村・劒大明神側と福井藩預所の四杉村・大王丸村、福井藩領の下山中村側との間で入会地の林河内をめぐる文政年間の争論を記録したもので、「河内争論訴答記録」の冊子をはじめ表題なしの冊子など3冊のほか、他の当家文書中にも散見される。
この争論は、1818年(文政1)に織田村側が干魃時の取決めとして林河内の水落としを行った際に、当地に下山中村側が植えてあった稲の青田刈りをしたことに端を発する。
翌年に内済するものの、1821年(文政4)に破談となり、これ以降18年以来の争論がむしかえされ、織田村側は林河内は神領である、下山中村側は隠田を掘り広げている、我らは水落としに連れだっていっただけで徒党を組んでいないし邪魔な立木等を苅っただけ等の主張を繰り広げ、対する下山中村側は織田村側は御法度の徒党を組んで狼藉をはたらいた、神領というなら証拠を見せよ、隠田というならなぜ今まで訴えなかったか等の主張を繰り広げた。
この争論は、織田村側が1823年(文政6)に再び林河内の水落としと称して多数の農民で下山中村側が植えてあった稲の青田刈りをしたことで織田村側に不利になったようで、あつかい人によって織田村側が代官・奉行や役所に詫状を出す方向での内済となり、水落としをする際にあらかじめ出す廻し文の内容も改めて25年(文政8)に一応収束する。
その後、明治初年ごろまでの双方確認による林河内での田切開規程や水落とし立ち会い願い、入会地としての双方確認の文書が見られる。
近代以降のものとしては、前述したように、林河内入会山規程・林河内議定証などのほか、1872年(明治5)劒神社領地が上地となるにあたり、足羽県に対し織田村と寺家村の合併願い・劒神社境内地を織田村に入れて引高とする願い、明治9-10年の県と越前7郡区間等の諸文書、94年(明治27)の「社明細帳」、年不詳の「福井県西田中警察署所轄内外之全図」などがある。
否撮カードは、「若狭郡県志」などの書籍、1793-1863年「寺家村神領入払御勘定帳」32冊、絵図を含む約150点である。
県史収載
通史編3 P.45・630・666、資料編5 P.710-711 3点
県史以外の収載
『丹生郡古文書目録』、『織田町史』、『越前市史 資料編3 中世1』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
D0108~D0116
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