山本重信家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
D0011
資料群名
山本重信家文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡居倉浦,下岬村居倉,福井市居倉町(越廼村)
資料の年代
1320年(元応2)~1840年(天保11)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
居倉浦は、越前岬の北に位置する。江戸時代ははじめ福井藩領、1686年(貞享3)から幕府領。村高は105石余、うち田方37石余・畑方68石余。山本家は代々九郎右衛門と称し、江戸時代には庄屋を務めたこともある。
資料群の概要
当家文書の資料編5掲載文書13点のうち12点は中世文書であり、残りの1745年(延享2)「山本丹後守同三郎左衛門二家一合之由来伝聞之趣を記し畢(先祖由来記)」も中世の由来を記したものであり、また同年「由緒書之扣」は同家所蔵の中世文書類の写しで、資料編掲載文書のうち2点は、ここに収められているだけである。このほか、何点かの中世文書の写し以外は、近世の貸借証文類が数点あるのみという特殊な残り方をしている。このため、近世以降はよく解らないが、中世の居倉浦および当家については、具体的な情報を得ることができるので、いくつか例を挙げる。
1320年(元応2)「預所代僧刀禰職宛行状」によれば、当地預所代が「居蔵浦刀禰職」を国利に宛行っており、これが当家の先祖であれば、鎌倉末期には居倉浦の刀禰職を有していたことになり、また1469年(応仁3)「某刀禰職安堵状」では重代相伝の「居鎌(倉)浦しょく式知行分」が山本三郎左衛門入道に安堵されており、中世を通じて刀禰職を有したと思われる。
つぎに年未詳「居倉浦年貢目録」によると、当浦の年貢には、正月の鏡餅4枚、串柿4串や2-11月まで毎月の塩7升・菜28、4月「たはねめ」(束和布)52把半、「てうめ」(帖和布)133帖などがあり、このなかから代官や刀禰の給与が支給されたほか、帖和布は天王社(現朝日町天王の八坂神社)や大谷寺、当浦の天王社・賀茂神社・薬師堂への供物にもあてられている。
由緒書によると当家には九郎右衛門系と同族の丹後守系があり、丹後守系は堂上奉公を行ったが、のちに居倉に帰住して朝倉氏の被官となり、天文17年「山本道春譲状」で「山本惣領職」として「居蔵浦田畑山林山川」と「織田荘内買得地」が山本九郎右衛門入道道春から丹後守系の岩千代丸に譲与されたことにより、両系は統合したとある。
1503年(文亀3)「朝倉貞景感状写」は敦賀郡司朝倉景豊の反乱に際し、朝倉貞景に加勢したため与えられたもので、このほか当家と朝倉氏との関係を知るうえで貴重な資料が何点かある。
1567年(永禄10)「立神吉藤買得地目録」は丹生郡末野村あたりに勢力をもった立神氏のもので、後世に当家の所蔵に帰したものと考えられる。ところで74年(天正2)「某申状」は、一向一揆を指揮した本願寺坊官のもとへ提出されたもので、織田信長勢を放逐して一揆衆が越前を制圧した直後の生々しい状況がうかがい知れるが、このなかで、丹生郡末野村立神清右衛門や府中の商人板屋を一揆が「理不尽」に討ち果したことを訴えている。これは一揆が本願寺の統制を離れてこれまでの支配層を攻撃した例であり、この一揆が朝倉氏時代以来の武士支配に抵抗する農民一揆としての性格をもっており、武士も含めて反信長勢力の糾合を図ろうとしていた本願寺の意図と矛盾することを示している。
否撮カードはない。
利用条件
 
県史収載
資料編5 P.704-709 12点、通史編2 P.534 P.913、通史編3 P.18
県史以外の収載
『越廼村誌』
複製本番号
D0055
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。