管理セクション
福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
D0009
資料群名
青木与右衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡厨浦,城崎村厨,越前町厨(越前町)
資料の年代
1584年(天正12)~1847年(弘化4)
資料目録件数
45
組織歴および履歴
厨浦は越前町の中央やや南、越前海岸の砂浜に立地し、北は道口浦、南は枝村茂原浦と高佐浦に接する。村高は、「正保郷帳」で205石余、「元禄郷帳」では123石余で別に「厨浦枝郷茂原浦」82石余が分立している。はじめ福井藩領、1624年(寛永1)勝山藩領、44年(正保1)幕府領福井藩預り地、86年(貞享3)幕府領直轄地、97年(元禄10)高森藩領を経てのち幕府領。そのうち、1736年(元文1)-50年(寛延3)と63年(宝暦13)-89年(寛政1)は福井藩預り地であった。
1706年(宝永3)「明細差出シ帳」によれば家数101、人数633、牛44、諸役として山手米7石余、大網役14石余、船役米3石余、同銀95匁余、肴役銀37匁余、役塩33俵(代銀198匁)、鍛冶役4匁余があった。1811年(文化8)「文化七午年家数人別増減帳」では家数159、人別833に増加している。
青木家は代々与右衛門を称し庄屋など村役を務める家柄で、敦賀屋を号し海運業にも従事した。1755年(宝暦5)「厨浦名寄帳」によれば、当浦の高持は1.3石から4.3石まで48名で、平均は1.7石余、規模別の分布は、平均以下が37名を占め、2石8名、3石2名、4.3石1名(当家)となっている。
1706年(宝永3)「明細差出シ帳」によれば家数101、人数633、牛44、諸役として山手米7石余、大網役14石余、船役米3石余、同銀95匁余、肴役銀37匁余、役塩33俵(代銀198匁)、鍛冶役4匁余があった。1811年(文化8)「文化七午年家数人別増減帳」では家数159、人別833に増加している。
青木家は代々与右衛門を称し庄屋など村役を務める家柄で、敦賀屋を号し海運業にも従事した。1755年(宝暦5)「厨浦名寄帳」によれば、当浦の高持は1.3石から4.3石まで48名で、平均は1.7石余、規模別の分布は、平均以下が37名を占め、2石8名、3石2名、4.3石1名(当家)となっている。
資料群の概要
撮影資料は45点で、近世初頭以来の浦方の庄屋文書が中心で、検地・貢租・塩田関係資料に特色がある。冊子資料が多く、近世浦方の興味深い情報を提供してくれるものがあるので、いくつか例をあげる。
1584年(天正12)「栗屋浦縄打目録」「栗屋内毛原浦縄打目録」は丹羽長秀の検地によるもので、他には今立郡の大滝村の例が確認されるのみであるが、たとえば、田方は大滝村と同様の石盛であるが、屋敷は大滝村の石盛より高く1石5斗であり、田方とのあいだに差はなかったこと、山畑については「分銭」でとらえられ、1反を500文とし、それを石当たり3貫文で換算して石高としており、これは山畑1反につき米1斗6升7合となり、大滝村の下畠より若干高いこと、また茂原浦がすでに枝村として分立していたことなどがわかる。
1687年(貞享4)「(小役銀米改ニ付年数品々書上)」は幕府領への領知替えに際し、大網役・船役・御肴役・塩役など近世の浦方の小物成について書き上げられたもので、05年(慶長10)を中心に秀康の頃に新設あるいは増設された小物成が多いことや、糠納・藁納が「福居御城御馬屋御用として在々より」差上げるとあり、もともと福井城内で飼育されていた馬の飼料として現物を上納していたが、やがて必要分以外が銀納とされたことなど、その成立過程がうかがわれる資料である。とくに塩役については、33年(寛永10)勝山松平藩が厨浦には3俵から33俵、茂原浦には2俵から17俵に引上げていることがわかり、同藩についての数少ない資料の一つである。
塩田について、1725年(享保10)「厨浦塩浜普請ニ付扶持方願書」は、打ち切られた藩の塩田普請費用の復活を願う願書であるが、そのなかで、高佐・茂原・厨の3浦は、秀康以来今まで毎年藩から普請費用をもらって塩焼渡世を続け、網役・魚役・浦役・船役・塩役(米19石余・永15貫200文余)と舟橋2艘の舟役(年に銀600匁程、破損の節は1艘につき35-36両)を塩稼と猟稼で務めてきたが、「如何仕候哉三拾年以来猟一切無御座候間、猟稼相止塩稼一式ニ而罷有候」と述べている。06年(宝永3)「厨浦明細差出帳」でも塩釜屋21軒、塩浜歩数8600歩とあり、農作業の間、3・4月より9月までの仕事は、女は塩稼、男は塩焼きの薪作りが中心で、魚漁は12月から4月まではつのじ鮫・鰈・鯖を釣るだけと記しており、生業としては漁業よりも製塩に比重が置かれているのがわかる。
また、浦には漁船が9艘あり、12月から4月までは「漁商売」に使われる一方、雑穀が不足するため若狭・丹後より買い調えるということや、船持の者が丹後・若狭や越後・加賀辺へも「口過ニ」商に廻るということも記されていることから、当浦では、自らの漁船を商船に仕立てて穀物の買付けなどに他国まで出向いていることがわかる。しかし、このような廻船業は小規模で、「船役銭ニ付願書」(年未詳)によると、渡海船(商い廻船)としての船役銭を徴収されるならば、直ちにこの稼ぎを止めなければならないと訴えるほどの規模であったらしい。
1803年(享和3)「駄送出入ニ付厨浦願書」は府中と河野・今泉浦を結ぶ西街道にある宿駅広瀬村が、間道通行の荷物をめぐって当浦と争った時のもので、荷物は菜種で恐らく当浦から積み出されようとしたものであろう。このなかで、福井藩領の広瀬村が、宿駅・湊の定めは「御一統之砌」すなわち越前一国が福井藩領であった時代に定まっているのに、最近違反が多いので荷物を取上げたと主張するのに対して、厨浦は、もし違反ならば、改めて「御料私領一同広瀬道致往来、外道小路通路御差留之旨」江戸表からの御触が出ているはずだと反論し、「出府御公訴」も覚悟なので、これ以上掛合わないと福井表に文通してくれるよう本保役所に願い出ている。結果はわからないが、越前一国が福井藩領であった近世初期にできあがった宿駅・湊の定めが、その後の公料私領の入り混じり、各浦での廻船業の盛行などの事態に対応しきれない様子がうかがえる。
否撮カードは、1803年(享和3)「御条目并山方」、46年(弘化3)「御高札之写」、62年(文久2)「五人組改帳」のほか、一紙類が断簡を含めて5点。
1584年(天正12)「栗屋浦縄打目録」「栗屋内毛原浦縄打目録」は丹羽長秀の検地によるもので、他には今立郡の大滝村の例が確認されるのみであるが、たとえば、田方は大滝村と同様の石盛であるが、屋敷は大滝村の石盛より高く1石5斗であり、田方とのあいだに差はなかったこと、山畑については「分銭」でとらえられ、1反を500文とし、それを石当たり3貫文で換算して石高としており、これは山畑1反につき米1斗6升7合となり、大滝村の下畠より若干高いこと、また茂原浦がすでに枝村として分立していたことなどがわかる。
1687年(貞享4)「(小役銀米改ニ付年数品々書上)」は幕府領への領知替えに際し、大網役・船役・御肴役・塩役など近世の浦方の小物成について書き上げられたもので、05年(慶長10)を中心に秀康の頃に新設あるいは増設された小物成が多いことや、糠納・藁納が「福居御城御馬屋御用として在々より」差上げるとあり、もともと福井城内で飼育されていた馬の飼料として現物を上納していたが、やがて必要分以外が銀納とされたことなど、その成立過程がうかがわれる資料である。とくに塩役については、33年(寛永10)勝山松平藩が厨浦には3俵から33俵、茂原浦には2俵から17俵に引上げていることがわかり、同藩についての数少ない資料の一つである。
塩田について、1725年(享保10)「厨浦塩浜普請ニ付扶持方願書」は、打ち切られた藩の塩田普請費用の復活を願う願書であるが、そのなかで、高佐・茂原・厨の3浦は、秀康以来今まで毎年藩から普請費用をもらって塩焼渡世を続け、網役・魚役・浦役・船役・塩役(米19石余・永15貫200文余)と舟橋2艘の舟役(年に銀600匁程、破損の節は1艘につき35-36両)を塩稼と猟稼で務めてきたが、「如何仕候哉三拾年以来猟一切無御座候間、猟稼相止塩稼一式ニ而罷有候」と述べている。06年(宝永3)「厨浦明細差出帳」でも塩釜屋21軒、塩浜歩数8600歩とあり、農作業の間、3・4月より9月までの仕事は、女は塩稼、男は塩焼きの薪作りが中心で、魚漁は12月から4月まではつのじ鮫・鰈・鯖を釣るだけと記しており、生業としては漁業よりも製塩に比重が置かれているのがわかる。
また、浦には漁船が9艘あり、12月から4月までは「漁商売」に使われる一方、雑穀が不足するため若狭・丹後より買い調えるということや、船持の者が丹後・若狭や越後・加賀辺へも「口過ニ」商に廻るということも記されていることから、当浦では、自らの漁船を商船に仕立てて穀物の買付けなどに他国まで出向いていることがわかる。しかし、このような廻船業は小規模で、「船役銭ニ付願書」(年未詳)によると、渡海船(商い廻船)としての船役銭を徴収されるならば、直ちにこの稼ぎを止めなければならないと訴えるほどの規模であったらしい。
1803年(享和3)「駄送出入ニ付厨浦願書」は府中と河野・今泉浦を結ぶ西街道にある宿駅広瀬村が、間道通行の荷物をめぐって当浦と争った時のもので、荷物は菜種で恐らく当浦から積み出されようとしたものであろう。このなかで、福井藩領の広瀬村が、宿駅・湊の定めは「御一統之砌」すなわち越前一国が福井藩領であった時代に定まっているのに、最近違反が多いので荷物を取上げたと主張するのに対して、厨浦は、もし違反ならば、改めて「御料私領一同広瀬道致往来、外道小路通路御差留之旨」江戸表からの御触が出ているはずだと反論し、「出府御公訴」も覚悟なので、これ以上掛合わないと福井表に文通してくれるよう本保役所に願い出ている。結果はわからないが、越前一国が福井藩領であった近世初期にできあがった宿駅・湊の定めが、その後の公料私領の入り混じり、各浦での廻船業の盛行などの事態に対応しきれない様子がうかがえる。
否撮カードは、1803年(享和3)「御条目并山方」、46年(弘化3)「御高札之写」、62年(文久2)「五人組改帳」のほか、一紙類が断簡を含めて5点。
県史収載
資料編5 P.556-576 13点、通史編3 P.85 P.126 P.190 P.243 P.443 P.472、通史編4 P.248 P.264 P.437 P.476
県史以外の収載
『越前町史』、田中照久「玄達瀬海底から引き揚げられた越前焼」(『金大考古』67 2010年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
D0058~D0059
関連資料一覧
縮小画像の表示/非表示
表示
件
表示順