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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
D0008
資料群名
相木惣兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡新保浦城ケ谷,四箇浦村新保,越前町新保(越前町)
資料の年代
1658年(万治1)~1873年(明治6)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
新保浦城ケ谷は、新保村の南部にある枝村で、「越前地理指南」に「高なし 城ケ谷」とあるように近世を通じて無高であった(新保浦については相木嘉雄家参照)。
相木惣兵衛家は宗兵衛の代すなわち1688年(貞享5)当地の20間四方の屋敷地に総費用25貫匁で出蔵・米蔵を建て、酒道具・船道具などを整えたのを基盤とし、1705年(宝永2)彼の死後、次男の惣兵衛が相続して新保の本宅(相木嘉雄家)と生計を2分したことに始まる。ところで当家資料によれば、1654年(承応3)小曾原村(丹生郡宮崎村)から出てきた宗兵衛は、庄屋(森)五右衛門の居屋敷と猟船五艘(うち反り子船3艘)を銀20貫で買取り、1680年(延宝8)には(津田)清太夫から反り子船5艘と反り子を「城ケ谷地面不残、人家・掟等も其侭ニ」永代に買得していた。したがって、この城ケ谷反り子もすべて当家が相続し江戸時代を通じて支配した。
2003年10月当館に寄託。
相木惣兵衛家は宗兵衛の代すなわち1688年(貞享5)当地の20間四方の屋敷地に総費用25貫匁で出蔵・米蔵を建て、酒道具・船道具などを整えたのを基盤とし、1705年(宝永2)彼の死後、次男の惣兵衛が相続して新保の本宅(相木嘉雄家)と生計を2分したことに始まる。ところで当家資料によれば、1654年(承応3)小曾原村(丹生郡宮崎村)から出てきた宗兵衛は、庄屋(森)五右衛門の居屋敷と猟船五艘(うち反り子船3艘)を銀20貫で買取り、1680年(延宝8)には(津田)清太夫から反り子船5艘と反り子を「城ケ谷地面不残、人家・掟等も其侭ニ」永代に買得していた。したがって、この城ケ谷反り子もすべて当家が相続し江戸時代を通じて支配した。
2003年10月当館に寄託。
資料群の概要
撮影資料は約30点で、分家以前の比較的早い時代の大名や商人あて貸付証文類と、隷属度の強かった譜代漁師「反り子」関係資料が大部分を占める。
「反り子」は鯛釣の特殊技能を持った西国の漁師集団で、近世初頭に越前に来住したといわれ、やがて丹生郡の城ケ谷・白浜・清水谷などに定住し、鰈や鱈の延縄漁にも従事したが、土地を持たない移住者であったため本浦の親方から譜代の漁師として強い支配をうけた。当家資料によりこれら「反り子」の由来や、支配の実態・変遷を知ることができ、また、相木嘉雄家の資料も合わせ読むと、「反り子」の経済的自立による親方子方関係の崩壊過程をたどることができる。
否撮カードはないが、資料編5の解題には当家文書について「貸付証文などを含めて45点」とあることから、撮影資料以外に20点前後の資料が確認されていた。
「反り子」は鯛釣の特殊技能を持った西国の漁師集団で、近世初頭に越前に来住したといわれ、やがて丹生郡の城ケ谷・白浜・清水谷などに定住し、鰈や鱈の延縄漁にも従事したが、土地を持たない移住者であったため本浦の親方から譜代の漁師として強い支配をうけた。当家資料によりこれら「反り子」の由来や、支配の実態・変遷を知ることができ、また、相木嘉雄家の資料も合わせ読むと、「反り子」の経済的自立による親方子方関係の崩壊過程をたどることができる。
否撮カードはないが、資料編5の解題には当家文書について「貸付証文などを含めて45点」とあることから、撮影資料以外に20点前後の資料が確認されていた。
県史収載
資料編5 P.517-526 6点、通史編3 P.182 P.249 P.283、通史編4 P.272 P.277?281
県史以外の収載
『丹生郡誌』『丹生郡古文書目録』『越前町史』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
劣化等保存上の理由から、原本は閲覧できません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
D0057
関連資料一覧
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