豊原春雄家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0503
資料群名
豊原春雄家文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡豊原村,長畝村豊原,坂井市丸岡町豊原(丸岡町)
資料の年代
1659年(万治2)~1703年(元禄16)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
豊原家は、一山三千坊と豪語した巨刹豊原寺の中世以来の別当坊華蔵院院主家の後裔である。豊原寺は、坂井平野東方の山地、井勝川上流域に、702年(大宝2)越の大徳泰澄が、白山三所権現を創祀したのに始まるという。平安時代後期以降、本格的に寺基が定まり、比叡山の末寺となって、六千坊を誇称した平泉寺と共に、越前における白山信仰の一大拠点となった。観音・薬師・深沙大将信仰等も付随した複雑な信仰形態をもって、中世に全盛期を迎えたが、その間多数の精鋭僧兵を養い、数々の戦乱に重要な役割をはたし、越前国内の各所に寺領を広げて勢力を拡大した。
また、その門前町豊原も非常な繁栄を誇り、『尺素往来』に紹介された美酒や素麺、馬面家に代表される兜鍛冶など、著名な産業も興隆した。しかし、寺基の存続をはかって一向一揆と手を結び、本願寺の越前守護下間頼照の根拠地となったため、1575年(天正3)織田信長軍の焼打ちに会い、一宇も残さず灰燼に帰した。1603年(慶長8)以降、歴代福井藩主の保護を受け、計82石の寺地と華蔵院が寄進され、復興の努力が続けられた。
1868年(明治1)神仏分離令により豊原寺は白山神社となり、華蔵院は廃寺となった。その後院主家は豊原氏を名乗って還俗し、田屋に移って、今日も平安末期と推定される旧講堂安置の薬師如来像をはじめとする天正の兵火以前の仏像類を守り続けている。
豊原村は、豊原寺の跡地に築かれた豊原城が丸岡に移されたあとに、田地が開かれ成立した。近世を通じて福井藩領で、村高は、慶長国絵図で50石、1623年(元和9)の改め出しで33石増。うち82石余が豊原寺領。明治初年には戸数が26あったが、1902年(明治35)の竹田新道の開通で村が寂びれ、35年(昭和10)には戸数12となり、63年(昭和38)の豪雪により無住地となった。
資料群の概要
当家の撮影資料は、資料編に収載した豊原寺唯一の縁起で、1703年(元禄16)の年紀をもつ豊原寺「白山豊原寺縁起」のほか、福井藩主松平光通の禁制状と同綱昌の諸役免許状の計3点である。
この「縁起」は15世紀中ごろには成立したと考えられ、従来は園城寺や興福寺とも交流があったが、1229年(寛喜1)延暦寺の僧を学頭に迎え天台宗への純化を図ったこと、1326年(嘉暦1)と85年(至徳2)には平泉寺と相論になり、いずれが本寺であるかを争ったが、最終的に豊原寺の主張が裁許されたこと、91年(明徳2)に斯波義将が長畝郷の料所半済を寄進して「氏寺」としたことなど興味深い記述が多くなされている。
調査撮影時の目録カードの所在が不明のため、否撮資料の存否については不明であるが、資料編解題には「福井三代藩主松平忠昌以降の朱印状や禁制など文書類を守り続けている」とあり、『福井県古文書所在調査報告書』(1979年)にも、1624年(寛永1)の「松平忠昌寄進状」など12点の資料目録がある。
利用条件
 
県史収載
資料編4 P.763-773
県史以外の収載
 
複製本番号
C0706
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。