飯塚五右衛門家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0099
資料群名
飯塚五右衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡細呂木村,細呂木村細呂木,あわら市細呂木(金津町)
資料の年代
1687年(貞享4)~1897年(明治30)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
細呂木村は、北潟湖の東岸、蓮浦村の西にあり、細呂木川(観音川)が北潟湖に流れ込む地点に位置する。古くは今道村と呼ばれ「正保郷帳」にもその名が見える。江戸期を通じて福井藩領。当村は北陸街道の宿駅に定められており、金津宿まで1里24町余、加賀国境まで23町余であった。村高は「正保郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに652石余。森藤右衛門家文書(A0142)の「申年御物成銀米納方本通」(文書番号00316、00317)によると、村高の半分にあたる326石余は諸役が免除されていた。しかし、17匹の役馬を常置しており、公用の旅行者や荷物を無賃または公定賃銭で継送することが義務づけられていた。また、細呂木川の橋のたもとには、1601年(慶長6)福井藩主結城秀康が設置した口留番所(関所)があり、加賀国への関門として、近江国への関門としての板取とともに最も重用視されていた。当番所は金津奉行の支配下にあった。
飯塚家は五右衛門を名乗り、屋号を角屋と称した。新屋藤右衛門(森家)とともに細呂木宿の本陣と問屋役を務め、近代には村長を務めた。問屋役は1734年(享保19)までは当村の有力百姓5・6人の者が務めていたが、この年から新屋と角屋が務めるようになり(『福井県史』資料編4P.583-P.584)、公用の人馬の継立てや公家武家の宿泊休憩などを担当した。蓮如忌には東別院の蓮如像が京都から吉崎へ説教所を廻って下るが、細呂木角屋もその1つである。
資料群の概要
撮影資料点数は89点。ほとんどが近世文書で、宿場・交通関係と飯塚家の私文書に大別できる。
宿場・交通関係は、(1)加賀藩前田家や巡検使などの宿泊・休憩に関するもの、(2)宿場における人馬継立てや荷物扱いに関するもの、(3)宿場関係などの法令に関するもの、(4)口留番所関係、(5)その他に分けられる。
(1)には、細呂木村の寛政の大火(1790年、91年)によって、加賀前田家の荷物を焼いてしまったために書かれた詫状、87年(天明7)の巡検使の宿泊覚などがある。
(2)には、前田家や間部家の参勤の際の人馬入用覚や、「御伝馬諸色盛立帳」、「伝馬諸日記」などがあり、日記から公定賃銭は継立ての種類や宿駅間の距離や地形の違いによって異なっていたことがわかる。また、人馬の継立てが重い負担となっていることについての願書も残されている。さらに、荷物運送に関しての文書からは、細呂木宿のみならず、越前国内の宿駅全体に関わるものも含んでおり、(3)の法令と合わせて国内の宿駅・交通全般をとらえるのに重要である。
(3)には、1800年(寛政12)の「御伝馬条目」や01年(享和1)の「宿々馬借条目之写」などがある。また、1687年(貞享4)の「御条目」に72軒と記載されていることから、当時の細呂木村の軒数を知ることができる。
(4)には、通行手形や通行願などがあり、1841年(天保12)の番人の居宅に関する覚からは、銀4貫で金津新町の大工等に請け負わせたことや図面より2軒続きであったことがわかる。
(5)には、細呂木村の問屋役の「挑合」に関する文書がある。
飯塚家の私文書には、当家が蓮如忌の休憩場となっている由来について書かれたものや寛政の大火以後、当家及び村が困窮した様子がうかがえる願書類がある。また、当家に後継ぎがなく、新屋から養子を迎えたことがわかる文書もある。
細呂木宿に関する文書は角屋とともに問屋役などを務めた森藤右衛門家(A0142)にも残されているので参照されたい。
近代文書は、「区会組織総則」など3点のみ。
否撮カードは4枚。「高売往来」、「御宮入費御祝并ニ寄進帳」などがある。
利用条件
 
県史収載
通史編4 P.584
県史以外の収載
『細呂木村誌』
複製本番号
C0918~C0922
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。