管理セクション
福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0094
資料群名
三国南小学校文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井市三国町山王(三国町)
資料の年代
1871年(明治4)~1967年(昭和42)
資料目録件数
66
組織歴および履歴
明治5年(1872)に学制が発布されると、西光寺(三国町南本町2丁目)を学舎とする官立の修齊小学校が創立された。これが三国南小学校の前身である。明治9年(1876)には近隣の二校と合併し、龍翔小学校と改称。この頃から校舎新築の議が起こり、興ヶ岡地区(性海寺所有地、三国町南本町4丁目)で建設工事が始まった。当時の三国湊は北前船による交易が空前の繁栄期を迎えた時代であり、巨額の建設費はすべて地域の有志からの寄付で賄ったという。明治12年(1879)に木造五層八角形の校舎が完成し、龍翔小学校(明治25年に三国尋常高等小学校と改称)は三国湊のシンボルとして地域住民に親しまれた。
明治末期になると、校舎老朽化のため興ヶ岡から中元地区(三国町山王2丁目)に移転。大正8年(1919)には三好得恵が校長に迎えられ、いわゆる「自発教育」の研究と実践に力を入れた。大正13年(1924)にはドルトン・プランの創始者であるアメリカのヘレン・パーカースト女史が参観するなど、大正自由教育の最先端の学校として全国からも注目された。
昭和7年(1932)、前年に発生した火災のため校舎を山上西地区(三国町山王1丁目、現小学校の敷地)に移転。昭和16年(1941)には国民学校令により三国南国民学校と改称。戦後は昭和22年(1947)に三国町立三国南小学校、平成18年(2006)に坂井市立三国南小学校と改称し、現在に至る。
明治末期になると、校舎老朽化のため興ヶ岡から中元地区(三国町山王2丁目)に移転。大正8年(1919)には三好得恵が校長に迎えられ、いわゆる「自発教育」の研究と実践に力を入れた。大正13年(1924)にはドルトン・プランの創始者であるアメリカのヘレン・パーカースト女史が参観するなど、大正自由教育の最先端の学校として全国からも注目された。
昭和7年(1932)、前年に発生した火災のため校舎を山上西地区(三国町山王1丁目、現小学校の敷地)に移転。昭和16年(1941)には国民学校令により三国南国民学校と改称。戦後は昭和22年(1947)に三国町立三国南小学校、平成18年(2006)に坂井市立三国南小学校と改称し、現在に至る。
資料群の概要
撮影資料は66点。明治期の学校沿革誌(00001)は学制発布(明治5年)以後の記述が中心だが、前身となった学問所である斯文館の時代(文久2年)の内容から書き起こしている。また明治初期の郷学創立に際しての世話方辞令(00040)や、龍翔小学校の学資金提供に対する誉状(00044、00045)などからは、地域住民の学校設立に対する期待の高さがうかがえる。
大正期の資料としては、三好得恵の著作(00009)に加え、教員の論文集(00008)や、児童の綴方・自由詩・短歌などを掲載した作品集『力いっぱい』(00033、00034)など、自発教育に関する資料が豊富である。そのほかに授業料領収証(00025)や卒業証書(00018~00022)、青年学校の職員会記録(00065)などがある。
大正期の資料としては、三好得恵の著作(00009)に加え、教員の論文集(00008)や、児童の綴方・自由詩・短歌などを掲載した作品集『力いっぱい』(00033、00034)など、自発教育に関する資料が豊富である。そのほかに授業料領収証(00025)や卒業証書(00018~00022)、青年学校の職員会記録(00065)などがある。
県史収載
通史編5 P.835
県史以外の収載
 
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
C0864~C0892
関連資料一覧
縮小画像の表示/非表示
表示
件
表示順