和田耕栄家(見谷屋)文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0036
資料群名
和田耕栄家(見谷屋)文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡吉崎浦,吉崎村吉崎,あわら市吉崎(金津町)
資料の年代
1628年(寛永5)~1911年(明治44)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
吉崎浦は村高252石余、江戸時代を通じて福井藩領である。北潟湖北部の東岸、加越国境の交通の要地に位置する。1471年(文明 3)、本願寺8世蓮如がこの地に入り吉崎坊舎を創建した。その後、坊舎は朝倉氏により破却されたが、1673年(寛文13)東西本願寺は蓮如旧跡への堂舎建立をめぐり争い、幕府の裁許をへて吉崎山の東麓に両派の吉崎別院が建立された。吉崎は越前・加賀などの門徒が集まる門前町であるとともに、廻船が出入りする湊町であった。和田家は代々「見谷屋」と号し、廻船問屋と酒造を営んでいた。当家は、4代目助右衛門以来福井藩から3人扶持を給されたようで、「松平斉承給帳」(松平文庫)にも「三人扶持 吉崎三谷屋助右衛門」とみえ、福井藩の御用金や才覚金の調達をはじめ、1834年(天保14)には札所助勢役に命じられるなど藩との関わりが深い。また、67年(慶応 3)吉崎浦と浜坂浦との間の潮留堰所普請に際しては、「御用掛」をつとめており、苗字を許されていた。68年(明治 1)には福井藩下領内の大庄屋を、72年(明治 5)には戸長を務めた。
資料群の概要
1628年(寛永 5)の「吉崎浦絵図」を初出とする。享保期以降、とくに天保から明治初年にかけての資料が多い。
当家文書は、浦方、廻船、酒造、蛎塚、開田、吉崎御坊関係などに類別され、冊子類が多い。その中で、家業である廻船と酒造を除くと蛎塚と開田関係が当家文書の特色としてあげられる。当浦の蛎の養殖は1635年(寛永12)すでに行われており、『越前国名蹟考』には「かき塚と云物を水中に拵置て、かきを着しむる事の由」と記されている。当浦の水戸口に鹿島とよばれる小島があり、大聖寺川の水が北潟湖北部に流れ込み、湖水といっしょになって日本海に流出していた。そのため、湖中は蛎やサルホ貝の成育に適しており、福井藩も養殖を奨励し、他国へ出荷して国益とした。ところが、文政期以降鹿島と大聖寺川南岸を結ぶ新道ができて、川と湖が切り離されたため貝がくさるとともに水の流れが変わって水戸口が狭く浅くなり、大船の出入りが困難になった。これにより、蛎の生産が次第にふるわなくなるとともに、湊への入船数も少なくなり、浦の衰微につながったようである。これとは対象的に隣浦の加賀国塩屋浦は入船も多くなっている。このため、当浦は水道を掘り、通水できるようにし以前の繁栄を願っており、これらに関する資料が地域の特色として注目される。
もうひとつの特色である開田関係は、1867年(慶応 3)の潮留堰所の建設によるもので、大堰・水門・開田普請は並行して進められ、明治初年にかけての北潟湖内の開田の経緯を知ることができる。
このほか、吉崎御坊関係では、普請や膳米・諸散物請払勘定帳などがある。廻船関係では天保から慶応にかけての持船の勘定帳から品物や取引先を知ることができる。当家には十数冊の日記類があり、なかでも1768年(明和 5)のものからは、24人の者が当家に押しかけるなどした騒動の様子が知れる。1866年(慶応 2)、薩摩藩の野村宗七や森清助の宿泊関連資料も興味深い。
約400点の否撮文書のうち、半数は享保期以降の金子借用証文とそれに関わる書状である。このほか、一紙文書として吉崎御坊志料金受取状などがある。冊子類は慶応から明治初期までの潮留大堰・水門、開田関係や家業に関わる「勢里売帳」など約100冊を数える。
利用条件
 
県史収載
資料編4 P.677-690 6点、通史編4 P.548-549
県史以外の収載
『坂井郡古文書目録』 『福井県古文書所在調査報告書』 『金津町史』
複製本番号
C0263~C0294、C0949~C0973
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。