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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0035
資料群名
願慶寺文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡吉崎浦,吉崎村吉崎,あわら市吉崎(金津町)
資料の年代
1488年(長享2)~1868年(明治1)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
願慶寺は浄土真宗大谷派の寺院で吉崎御坊があった山の北麓、252石余の福井藩領吉崎浦の集落内にある。
1471年(文明3)、蓮如によって創建された吉崎の坊舎は1506年(永正3)朝倉氏によって破却され、以後永らく廃坊となっていたが、再建をめぐり山上の所有について東本願寺と西本願寺の間で争論となった。5年の争論は福井藩でなく幕府のあつかうところとなり、1677年(延宝5)、寺社奉行の裁決は、両者の山上の所有を認めず山上を幕府直轄とし、開山法事等の儀は山下の道場で行うようにとのことであった。
願慶寺は、由緒書によると、蓮如が寄宿した縁で感化された当地の住人十兵衛が朝倉敏景の許しを得て御堂を建て、道場とし、六世のころの1682年(天和2)願慶寺の寺号を与えられたという。以後、1721年(享保6)東本願寺掛所吉崎御坊の再興まで吉崎総道場であり、願慶寺御堂を掛所御堂とし、御坊留守居も務めていた。なお、現在も東本願寺吉崎別院が、毎年一回京都の本山より蓮如の自画像を迎え、蓮如忌の法要を営んでいるが、この法要に当寺が総道場として関係した時期があったであろう。
1471年(文明3)、蓮如によって創建された吉崎の坊舎は1506年(永正3)朝倉氏によって破却され、以後永らく廃坊となっていたが、再建をめぐり山上の所有について東本願寺と西本願寺の間で争論となった。5年の争論は福井藩でなく幕府のあつかうところとなり、1677年(延宝5)、寺社奉行の裁決は、両者の山上の所有を認めず山上を幕府直轄とし、開山法事等の儀は山下の道場で行うようにとのことであった。
願慶寺は、由緒書によると、蓮如が寄宿した縁で感化された当地の住人十兵衛が朝倉敏景の許しを得て御堂を建て、道場とし、六世のころの1682年(天和2)願慶寺の寺号を与えられたという。以後、1721年(享保6)東本願寺掛所吉崎御坊の再興まで吉崎総道場であり、願慶寺御堂を掛所御堂とし、御坊留守居も務めていた。なお、現在も東本願寺吉崎別院が、毎年一回京都の本山より蓮如の自画像を迎え、蓮如忌の法要を営んでいるが、この法要に当寺が総道場として関係した時期があったであろう。
資料群の概要
136点余を撮影している。おもなものに分類すると、(1)中世末の顕如・教如・坊官の書状類、近世になってから、(2)坊官からの免許状類や真如・達如の書状、(3)願慶寺由緒書・遠忌や年中行事記録、(4)山上一件記録、(5)寺請証文関係類、(6)目付・役所からの触、(7)奉行への門・鐘等に関する願い類、(8)本願寺関係者下向記録関係、(9)門徒からの取立・門徒間の争論関係、(10)明治維新ころの朝廷よりの布告書・郡民政局からの達、等々である。
とくに中世末ころの(1)は、石山本願寺と信長の和睦前と思われる顕如の消息や、教如が和睦後も父顕如に従わず石山本願寺に籠城したころと思われる教如や彼に従った坊官の下間頼竜などの消息や書状がみられ、年代等の検証の余地がある。
調査カ-ドによれば、否撮文書は108点を数え、(1)本願寺坊官書状類・宿記録類、(2)行事記録類、(3)寺請証文関係類、(4)目付・役所からの触・輪番からの触類、(5)蓮如・教如関係類、(6)吉崎付近の絵地図類、(7)郡役所・民政局などからの達類などがある。
とくに中世末ころの(1)は、石山本願寺と信長の和睦前と思われる顕如の消息や、教如が和睦後も父顕如に従わず石山本願寺に籠城したころと思われる教如や彼に従った坊官の下間頼竜などの消息や書状がみられ、年代等の検証の余地がある。
調査カ-ドによれば、否撮文書は108点を数え、(1)本願寺坊官書状類・宿記録類、(2)行事記録類、(3)寺請証文関係類、(4)目付・役所からの触・輪番からの触類、(5)蓮如・教如関係類、(6)吉崎付近の絵地図類、(7)郡役所・民政局などからの達類などがある。
県史収載
資料編4 P.514-521 13点、通史編2 P.740
県史以外の収載
『越前若狭古文書選』 『坂井郡古文書目録』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
C0295~C0301
関連資料一覧
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