性海寺文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0032
資料群名
性海寺文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡三国湊,三国町下西,坂井市三国町南本町(三国町)
資料の年代
1357年(延文2)~1915年(大正4)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
性海寺は三国湊市街地のほぼ中央に位置し、真言宗智山派。瀧谷寺と並ぶ当地方の巨刹で、江戸時代には越前・加賀の触頭をつとめた。1356年(延文1)律宗の宗信によって三国宿浦の篠谷に創建され、81年(永徳1)2世の空信のとき現在地に移り改宗したという。中世末には、朝倉氏家臣中の有力な国人堀江氏の帰依を受けて田地を寄進されていた。江戸時代に入り、福井藩主からも寺領を安堵され、門前地を所持していた。1682年(天和2)には、京都仁和寺覚助法親王から仁和寺の一院の兼帯を命じられ、厳浄院と称した。翌83年、山号を篠谷山から現山号金剛宝山と改めた。『越前国名蹟考』によると、地蔵院・智福院・正智院の塔頭があった。なお、塔頭のひとつである正智院の院主が、三国惣氏神別当として山王社(三国神社)を管理していた。当寺は文書のほか、鎌倉後期作の「絹本著色地蔵菩薩像」(重要文化財)などの仏画美術品を蔵する。当寺境内には韃靼漂流者供養碑(1656年建立)がある。
資料群の概要
当寺の中世文書25点は、藤原利仁の流れをくむ堀江氏からの田地寄進状や当寺の開祖宗信の法脈に関するものなどからなる。豊臣氏時代も当寺は優遇を受けたようで、1598年(慶長3)9月朔日付の書状からは太閤検地において「寺中并山林」を除地とされたことがわかる。
近世文書は、当寺由緒書、真言宗新義法中関連、仁和寺(御室御所)関連、瀧谷寺との座論関係、福井藩主松平光通・昌親寺領安堵状、福井藩士書状、門前関係、末寺関係からなる。門前関係資料に特色がある。当寺の門前町の家数は、1828年(文政12)には71軒である(「三国湊記録」)。門前に居住しようとしたり、あるいは家を新築しようとするさいには、当寺の許可が必要であり、これらに関する借地証文などが残る。58年(安政5)森之下町を新門前地としたさいの「新門前定式勤方箇条請書」によると、数か条にわたって門前地居住者が当寺に対して義務を負っていたことがわかる。この中で、「諸事古門前ニ准」とあり、古門前地でも同様であったと考えられる。また、門前内に居住するものは、当寺への年貢不納や条目に反するような不都合の場合は門前追放となることがあったようである。末寺関係では、坂井郡金津の惣持寺、兵庫の大善寺、沢村の神宮寺、糸崎浦の糸崎寺に関するものがある。惣持寺は無住となったおり、性海寺が寺務を務めるようになり、性海寺の末寺となっており、享保期にはその離末をめぐり争いとなっている。このほか、当寺と檀家の関係文書として、宗旨の変更、死亡届、往来一札の発給、祠堂銀の貸付などがある。
明治期以降の資料は、1879年(明治12)の寺明細帳や、同年に当寺所有の経ケ岡(興ケ岡、愛宕山)に建設された龍翔小学校の敷地に関するもの、95年の中性院伝流、1915年(大正4)の寺有財産帳などである。
否撮文書約250点はすべて近世文書であり、その内容は撮影文書のそれとほぼ同じであり、撮影コマ数の制約によりやむを得ず撮影しなかったものと思われる。
利用条件
複写および研究論文等に引用する場合は所蔵者の許可を得ること。
県史収載
資料編4 P.222-241 31点、通史編2 P.515・P851・P896、通史編3 P.643
県史以外の収載
『坂井郡古文書目録』 『越前若狭古文書選』 『三国町史』
複製本番号
C0219~C0224
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。