勝授寺文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0028
資料群名
勝授寺文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡三国湊,三国町台,坂井市三国町南本町(三国町)
資料の年代
1483年(文明15)~1875年(明治8)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
勝授寺は進学山と号し、浄土真宗本願寺派。大町専修寺を前身とする。1290年(正応3)創建されたという専修寺はいったん衰微し、蓮如のころ再興されるが、その後、興予のとき、加賀諸江坊の賢了(興予の弟)の子を猶子とした。専修寺賢会である。1574年(天正2)越前を制圧した一向一揆勢力は、織田信長軍の侵攻に備え、一家衆であった専修寺賢会もその中心となり、鉢伏山(木芽峠付近)にたてこもったが、75年8月織田軍の侵攻で討死した。その子唯賢らは加州諸江へ逃れたが、ここもそののち柴田勝家の軍勢に攻められ、諸江坊は廃絶したとみられた。しかし、さらに越中五箇山に逃げ、79年(同7)越前中野村(大野市)に帰住、89年(同17)三国に移ったという。この間、専修寺子孫は絶えたとして、その門徒は京都興正寺に預けられたが、唯賢の訴えにより、1601年(慶長6)大野郡の専修寺門徒の取次権が唯賢に返された。このとき勝授寺の寺号も与えられたという(別に1581年の説もある)。しかし勝授寺の初出は1605年(慶長10)「太子御影裏書」であり、これ以前の文書には寺号は見当たらず、単に諸江と称されている。おそらく寺号の下付は1601年から05年の間のことで、本来、極めて緊密な関係にあった専修寺と加賀諸江坊はともに織田軍の北陸制圧のもとで廃絶したが、専修寺の由緒と賢会の奮戦に酬いるため、両者のあとをつぐことが唯賢に認められ、寺号が下されたと考えられる。こののち勝授寺住職は代々宰相・中将を称し、超勝寺・本覚寺・西光寺とともに越前真宗教団において重きをなした。
資料群の概要
撮影資料は約150点で、そのうち慶長年間(1596-20)までは41点ある。これらは加賀諸江坊関係文書であり、前述のような事情で唯賢が諸江坊から逃れたとき帯出したと考えられる。諸江坊の創建は1481年(文明13)頃といわれ、以後、惣村の有力百姓たる門徒から諸江坊へ田地の加地子得分権が寄進ないし売却された。ところが1531年(享禄4)大小一揆の結果、諸江殿門徒のなかから、有力化した超勝寺に属し、これ以前諸江殿に寄進した田地を回収して超勝寺へ持参するものがでた。多くは、これをめぐる争論関係文書であり、当時の本願寺を頂点とする教団体制と惣村内門徒の動向との関連を解明するうえで貴重な資料である。
また、諸江殿に宛てた専修寺賢会書状14通は1573年(天正1)-74年に織田軍の侵攻に備えて、鉢伏山にたてこもった賢会が陣中から出したものであり、一揆の実況を当事者側から報じた希有の資料として重視されているものである。近世文書では、1665年(寛文5)の興正寺との門徒所属をめぐる文書や、1812年(文化9)の「三業惑乱」に関する文書などがある。
調査はあらかじめ『坂井郡古文書目録』によりカードを作成し、資料と照合する形で行われたと思われる。否撮カードは30点分あるが、うち22点分には「なし」と記入されており、調査当時照合ができなかった分と思われる。
利用条件
 
県史収載
資料編4 P.245-274 50点、通史編2 P.774・ P.775・ P.799 ・P.851・ P.884 ・P.916 ・P.1009、通史編3 P.24-27 ・P.651-652 ・P.674 ・P.690
県史以外の収載
『越前若狭古文書選』 『坂井郡古文書目録』 『三国町史』、井上鋭夫『一向一揆の研究』
複製本番号
C0168~C0169
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。