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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0019
資料群名
浄光寺文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡轟村,本荘村轟木,あわら市轟木(芦原町)
資料の年代
1432年(永享4)~1871年(明治4)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
轟村は、金津の西南の平野部に位置する。
浄光寺は、高木山と号し、浄土真宗本願寺派。由緒書によると、鎌倉期に三河住人安田三郎(法名宗忍)が吉田郡高木郷に一宇を建立したのが始まりとされる。当寺の方便法身像裏書から、1491年(延徳3)にはすでに寺院化していたことがわかる。1575年(天正3)8月の一向一揆壊滅の際には浄光寺住持も討死したとされ(「朝倉始末記」)、現在の地での再建は1602年(慶長7)をわずかにさかのぼる頃のことであったと考えられる。
浄光寺は、高木山と号し、浄土真宗本願寺派。由緒書によると、鎌倉期に三河住人安田三郎(法名宗忍)が吉田郡高木郷に一宇を建立したのが始まりとされる。当寺の方便法身像裏書から、1491年(延徳3)にはすでに寺院化していたことがわかる。1575年(天正3)8月の一向一揆壊滅の際には浄光寺住持も討死したとされ(「朝倉始末記」)、現在の地での再建は1602年(慶長7)をわずかにさかのぼる頃のことであったと考えられる。
資料群の概要
撮影した資料の多くは、当寺と姻戚関係にあった長慶寺の明治期の住持甘庶普薫が収集した文書の一部と考えられる。長慶寺は福井城下東町(木田組)にあり、浄土真宗本願寺派。今庄・池田などの木地師集団を門徒としていた。文書は(1)長慶寺門徒の木地師に関するもの、(2)石場の慶松家に関するもの、(3)木田の地方文書に大別できる。
(1)では、1557年(弘治3)、南条郡の宅良・三尾河内の木地師・山衆たちが府中町で木地・引物等二季津役を負担していたことがわかる。また織田信長の坂本・比叡山焼き討ちの翌年(1572年)、朝倉義景が坂本の日枝社復興のために越前国中の諸商売人に段銭を賦課した際には、諸役を免じられていたこともわかる。
(2)では1493年(明応2)に朝倉光玖が足羽郡三か庄十人衆商人に与えた定書(資料編3 慶松勝三家文書参照)のほか、堀秀治・山田高定・しいな和寿が慶松氏にあてた書状などがある。
(3)では1598年(慶長3)の「下木田庄検地水帳写」「越前国木田之内堀町屋敷平検地帳」、1794年(寛政6)の「御郡所土目録」や木田地方の羽入町留(寛政12-文化)などがある。
この他に浄土真宗本願寺派の教義をめぐる争論である三業惑乱に関連して、1804年(文化1)の長慶寺・勝縁寺と他寺との融和を求めた三領同行惣代の願書、十郷用水関連の願書類がある。
約150点が否撮資料。このうち60点が絵図類、これ以外に暦が80点あまりある。
(1)では、1557年(弘治3)、南条郡の宅良・三尾河内の木地師・山衆たちが府中町で木地・引物等二季津役を負担していたことがわかる。また織田信長の坂本・比叡山焼き討ちの翌年(1572年)、朝倉義景が坂本の日枝社復興のために越前国中の諸商売人に段銭を賦課した際には、諸役を免じられていたこともわかる。
(2)では1493年(明応2)に朝倉光玖が足羽郡三か庄十人衆商人に与えた定書(資料編3 慶松勝三家文書参照)のほか、堀秀治・山田高定・しいな和寿が慶松氏にあてた書状などがある。
(3)では1598年(慶長3)の「下木田庄検地水帳写」「越前国木田之内堀町屋敷平検地帳」、1794年(寛政6)の「御郡所土目録」や木田地方の羽入町留(寛政12-文化)などがある。
この他に浄土真宗本願寺派の教義をめぐる争論である三業惑乱に関連して、1804年(文化1)の長慶寺・勝縁寺と他寺との融和を求めた三領同行惣代の願書、十郷用水関連の願書類がある。
約150点が否撮資料。このうち60点が絵図類、これ以外に暦が80点あまりある。
県史収載
資料編4 P.406-412 14点、通史編2 P.735・P.790・P.802
県史以外の収載
藤田恒春「『駒井日記』と駒井重勝:祐徳文庫本「駒井中書日次記」巻二の紹介」(『史林』70(1) 1987年)、『越前市史 資料編3 中世1』、『越前市史 資料編4 本多富正関係文書』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
C0170~C0171、C1292~C1300、C1304~C1398、C1400~C1403
関連資料一覧
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