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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0006
資料群名
称念寺文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡長崎村,高椋村長崎,坂井市丸岡町長崎(丸岡町)
資料の年代
1306年(徳治1)~1904年(明治37)
資料目録件数
56
組織歴および履歴
長崎村は丸岡の西部、兵庫川の右岸に位置する。長林山往生院称念寺は、1290年(正応3)に越前国内を遊行した一遍の高弟他阿弥陀仏真教によって開かれた時宗の寺院で一般に長崎の称念寺と呼ばれる。
1459年(長禄3)の縁起によれば、以前からこの地には念仏堂があり、真教は称念ら三兄弟の帰依をうけて、この念仏堂を時宗寺院称念寺としたと伝えられている。称念の兄弟は別に光明院と西教寺を建て、称念寺の「御倉」、すなわち財政を担当して寺領支配にあたったという。称念寺発展の背景には縁起に「有徳人」と記される称念ら在地有力者の活動があったことが推測される。
また、中世の時宗僧尼は陣僧として従軍し葬送に携わったが、藤島の戦いで戦死した新田義貞の遺骸を時宗僧が往生院に運んだことが「太平記」(巻二十)にみえており、境内には義貞の墓がある。
1459年(長禄3)の縁起によれば、以前からこの地には念仏堂があり、真教は称念ら三兄弟の帰依をうけて、この念仏堂を時宗寺院称念寺としたと伝えられている。称念の兄弟は別に光明院と西教寺を建て、称念寺の「御倉」、すなわち財政を担当して寺領支配にあたったという。称念寺発展の背景には縁起に「有徳人」と記される称念ら在地有力者の活動があったことが推測される。
また、中世の時宗僧尼は陣僧として従軍し葬送に携わったが、藤島の戦いで戦死した新田義貞の遺骸を時宗僧が往生院に運んだことが「太平記」(巻二十)にみえており、境内には義貞の墓がある。
資料群の概要
称念寺に対しては、越前における時宗の拠点として1458年(長禄2)に将軍足利義政から将軍家祈願所の御教書と寺領目録が発給された。これは、いわゆる長禄合戦によって混乱した越前に対して直接支配権を強めようとする幕府の意図を示すものと考えられる。その寺領は多少散在的ではあるが、有力武士なみの規模をもっていた。称念寺も以後毎年将軍に礼物を進めて寺領を維持しようとした。
続いて1465年(寛正6)には後土御門天皇から祈祷所の綸旨を受け、以来、朝倉・織田・柴田・羽柴・丹羽・堀・前田の諸氏からも安堵状や禁制を与えられている。
また徳川氏が遠祖を新田義貞と定めて以来、徳川家・松平家からも保護を受け、1737年(元文2)年の400年忌やその後の450年忌・500年忌には幕府老中からの香奠が進納された。
さらに1750年から1815年までの遊行上人の証状・印信状が残されている。朝倉氏関係の文書としては、1614年(慶長19)の「朝倉系図」が含まれる。
否撮資料は1点のみ(1917年「新田義貞公菩提所由来」)。
続いて1465年(寛正6)には後土御門天皇から祈祷所の綸旨を受け、以来、朝倉・織田・柴田・羽柴・丹羽・堀・前田の諸氏からも安堵状や禁制を与えられている。
また徳川氏が遠祖を新田義貞と定めて以来、徳川家・松平家からも保護を受け、1737年(元文2)年の400年忌やその後の450年忌・500年忌には幕府老中からの香奠が進納された。
さらに1750年から1815年までの遊行上人の証状・印信状が残されている。朝倉氏関係の文書としては、1614年(慶長19)の「朝倉系図」が含まれる。
否撮資料は1点のみ(1917年「新田義貞公菩提所由来」)。
県史収載
資料編4 P.692-706 18点、通史編2 P.302・P.573・P.601・P.872・P.930・P.931・P.1015-1017、通史編3 P.642
県史以外の収載
『丸岡町史』、 『福井県古文書所在調査報告書』、松園潤一朗「室町幕府安堵の様式変化について」(『人文』8 2009年)、『越前市史 資料編3 中世1』、新谷和之「中世後期における越前北部の軍事情勢と長崎称念寺」(『民俗文化』33 2022年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
C0041~C0043
関連資料一覧
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