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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
B0002
資料群名
永平寺文書
地域(近世,行政村,現在)
吉田郡市野々村,志比谷村志比,永平寺町志比(永平寺町)
資料の年代
1199年(正治1)~1912年(大正1)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
市野々村は、吉野ケ岳北東麓、九頭竜川支流永平寺川流域に位置する。江戸時代は福井藩領、村高は735石余であった。
永平寺は、曹洞宗大本山で開山は道元。道元は1200年(正治2)内大臣久我通親の子として生まれ、13年(建保1)比叡山横川の首楞厳院で剃髪し、17年(建保5)秋より栄西(臨済宗開祖)の高弟明全に師事した。23年(貞応2)明全らとともに入宋、27年(安貞1)帰国して建仁寺に入った。この年、「普勧坐禅儀」1巻を著したが、これこそ日本曹洞宗の出発点となった。30年(寛喜2)建仁寺から深草安養院に移り、さらに33年(天福1)に極楽寺の一部であった観音導利院を母体として興聖寺を建立するが、これが道元の建てた最初の道場となる。多武峯による臨済宗大恵派の一派であった大日派の覚晏門下の孤雲懐奘、つづいて越前波著寺による懐鑑や弟子徹通義介・義演らが続々と道元の深草教団に加わった。このように道元の教団が優勢となるにつれて比叡山延暦寺天台宗徒の圧迫が激しくなったため、道元の帰依者で在京御家人であった波多野義重らの奨めによって、彼が地頭職を有する越前国志比庄に移り、44年(寛元2)吉祥山大仏寺に入った。そして46年(寛元4)6月、大仏寺を永平寺と改称した。道元は53年(建長5)7月、永平寺を懐奘に譲り、同年8月28日、京都において54歳の生涯を閉じた。
懐奘は1267年(文永4)永平寺を弟子の義介に譲ったが、義介は住山5年で永平寺を退いた。これは義介と義演らの両門流の間に対立が生じたためという。世にこれを三代相論という。法系よりいえば道元より3代目にあたる義演や宝慶寺開山寂円は道元の純粋な宗風を保持しようとし、義介の教団発展を意図する積極性との対立が考えられている。義介はやがて加賀大乗寺(金沢市)の開山となり、その門より瑩山紹瑾が出て能登の総持寺の開山となり、曹洞宗の流布発展に一時期を画する事となった。義介とその門派の去った永平寺は義演に次いで寂円の弟子義雲が5世となった。現在永平寺には義雲が1327年(嘉暦2)につくった梵鐘が残っている。室町中期になると長く永平寺と関係を断っていた瑩山門派よりも宗祖道元の開いた永平寺に深い関心をよせるものも現れ、永平寺に昇住するものも出て、永平寺は曹洞宗の根本道場としてよみがえることになった。
近世に入ると、丹羽長重以降は寺領40石と定められ、結城秀康の入国後は20石となったらしく、1661年(寛文1)松平忠昌の石塔灯供料として30石が加えられ、以後、50石となった。
永平寺は、曹洞宗大本山で開山は道元。道元は1200年(正治2)内大臣久我通親の子として生まれ、13年(建保1)比叡山横川の首楞厳院で剃髪し、17年(建保5)秋より栄西(臨済宗開祖)の高弟明全に師事した。23年(貞応2)明全らとともに入宋、27年(安貞1)帰国して建仁寺に入った。この年、「普勧坐禅儀」1巻を著したが、これこそ日本曹洞宗の出発点となった。30年(寛喜2)建仁寺から深草安養院に移り、さらに33年(天福1)に極楽寺の一部であった観音導利院を母体として興聖寺を建立するが、これが道元の建てた最初の道場となる。多武峯による臨済宗大恵派の一派であった大日派の覚晏門下の孤雲懐奘、つづいて越前波著寺による懐鑑や弟子徹通義介・義演らが続々と道元の深草教団に加わった。このように道元の教団が優勢となるにつれて比叡山延暦寺天台宗徒の圧迫が激しくなったため、道元の帰依者で在京御家人であった波多野義重らの奨めによって、彼が地頭職を有する越前国志比庄に移り、44年(寛元2)吉祥山大仏寺に入った。そして46年(寛元4)6月、大仏寺を永平寺と改称した。道元は53年(建長5)7月、永平寺を懐奘に譲り、同年8月28日、京都において54歳の生涯を閉じた。
懐奘は1267年(文永4)永平寺を弟子の義介に譲ったが、義介は住山5年で永平寺を退いた。これは義介と義演らの両門流の間に対立が生じたためという。世にこれを三代相論という。法系よりいえば道元より3代目にあたる義演や宝慶寺開山寂円は道元の純粋な宗風を保持しようとし、義介の教団発展を意図する積極性との対立が考えられている。義介はやがて加賀大乗寺(金沢市)の開山となり、その門より瑩山紹瑾が出て能登の総持寺の開山となり、曹洞宗の流布発展に一時期を画する事となった。義介とその門派の去った永平寺は義演に次いで寂円の弟子義雲が5世となった。現在永平寺には義雲が1327年(嘉暦2)につくった梵鐘が残っている。室町中期になると長く永平寺と関係を断っていた瑩山門派よりも宗祖道元の開いた永平寺に深い関心をよせるものも現れ、永平寺に昇住するものも出て、永平寺は曹洞宗の根本道場としてよみがえることになった。
近世に入ると、丹羽長重以降は寺領40石と定められ、結城秀康の入国後は20石となったらしく、1661年(寛文1)松平忠昌の石塔灯供料として30石が加えられ、以後、50石となった。
資料群の概要
当寺文書のうち、中世文書は約30点撮影している。これらは(1)道元・懐奘に関するもの、(2)寺領に関するものに分けられる。(1)では、道元の師明全が東大寺より受具した戒牒、道元と明全との師弟関係を示した付法状や伝法偈、明全・道元に入宋のために与えられた院宣写や六波羅過所写などがある。また、道元筆の「普勧坐禅儀」は国宝となっている。(2)では朝倉氏による永平寺への寺領安堵や寄進に関するものなどがある。また、朝倉孝景(宗淳)が承認した永平寺の定書も残っている。この定書の裏には朝倉孝景の花押が押されている。
近世文書は大別して(ア)永平寺関係文書と(イ)門前百姓関係文書に分かれる。(ア)では、(3)寺領に関するもの、(4)寺法宗法に関するもの、(5)本末に関するものに分けられる。(3)では、天正期の丹羽長重や堀秀政の安堵状・寄進状や、寛文期の松平光通の寄進状などがある。(4)では、徳川家康・秀忠による法度書、幕府老中からの定書などが残っている。内容は永平寺の本山としての地位、転衣出世・紫衣の着用などに関することである。(5)は、おもに総持寺との本末をめぐる対立に関するものが多い。(イ)では永平寺が両門前に対して出した山林取扱等に関する申渡の請状が残っている。
このほかに、天正期の織田信長や柴田勝家などの禁制・判物や、近代における太政官布告なども撮影されている。
近世文書は大別して(ア)永平寺関係文書と(イ)門前百姓関係文書に分かれる。(ア)では、(3)寺領に関するもの、(4)寺法宗法に関するもの、(5)本末に関するものに分けられる。(3)では、天正期の丹羽長重や堀秀政の安堵状・寄進状や、寛文期の松平光通の寄進状などがある。(4)では、徳川家康・秀忠による法度書、幕府老中からの定書などが残っている。内容は永平寺の本山としての地位、転衣出世・紫衣の着用などに関することである。(5)は、おもに総持寺との本末をめぐる対立に関するものが多い。(イ)では永平寺が両門前に対して出した山林取扱等に関する申渡の請状が残っている。
このほかに、天正期の織田信長や柴田勝家などの禁制・判物や、近代における太政官布告なども撮影されている。
県史収載
資料編4 P.40-70 44点、資料編14 P.794-795・P.797・P.801-803、通史編2 P.662・P.781・P.791・P.959・P.996-997、通史編3 P.83・P.634・P.636・P.640・P.656
県史以外の収載
『永平寺町史』 『越前若狭古文書選』 『福井県古文書所在調査報告書』 『永平寺史』 『吉田郡誌』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
B0021~B0032
関連資料一覧
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