高屋・山室十五日講共有文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
A0544
資料群名
高屋・山室十五日講共有文書
地域(近世,行政村,現在)
吉田郡高屋村・山室村,河合村高屋・山室,福井市高屋町・山室町
資料の年代
年未詳~年未詳
資料目録件数
 
組織歴および履歴
高屋村は、日野川と九頭竜川の合流付近の九頭竜川右岸に位置する。江戸時代を通じて福井藩領。田方921石余、畑方752石余の計1673石余。すべて蔵入地だが、800石は上級藩士の知行地にあてられた。
山室村は高屋村の東にある隣村で、日野川との合流点に近い九頭竜川右岸に位置する。枝村に西垣内・巻垣内がある(『越前国名蹟考』)。江戸時代を通じて福井藩領で石高は田方1092石余、畑方818石余の計1910石余。村内は蔵入地と上級藩士の知行所があった。
高屋村では福井城下田原の光明寺門徒が、山室村では坂井郡米ケ脇の西光寺門徒が多数を占める。光明寺は現在、浄土真宗西本願寺末だが、1682年(天和2)以前は西光寺と同じ東本願寺末であった。この両村の門徒が組織した十五日講にあてて東本願寺開祖の教如が送った消息が現存している。
資料群の概要
1570年(元亀1)から続いた石山本願寺と信長の戦い(石山合戦)は、80年(天正8)閏3月に和議が成立し、顕如は76年(天正4)以来籠城していた摂津石山城を退去したが、顕如の子教如は父の方針に反して徹底抗戦を主張し、諸国の門徒に檄を発した。教如と信長の間で本格的戦闘はなく、再び和議がなって同年8月2日に教如は大坂を退去。その後、教如は父の没後12世となるが、秀吉により隠居させられる。しかし、隠居後も先の籠城に同調した末寺などと連絡をとり続け、1603年(慶長8)家康の後援を得て東本願寺12世となった。
当文書は、教如が越前河合庄下ノ郷高屋村・山室村十五日講から送られた懇志に対する礼、真宗の教義とその修業について手短に書き記している。9月11日とあるのは1580年(天正8)の教如の大坂退去直後のことか、それ以降か、それとも1580年以前かは不詳である。ちなみに、小泉義博氏の教如花押の変化研究資料によると、当文書の花押は、83年(天正11)7月23日や91年(天正19)6月23日の越後「本誓寺文書」の花押とよく似ている。
否撮カードはない。
利用条件
 
県史収載
通史編3 P.703、資料編3 P.650-651 1点
県史以外の収載
 
複製本番号
A0395
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。