加藤与次兵衛家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
A0161
資料群名
加藤与次兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
足羽郡天王村,六条村天王,福井市天王町
資料の年代
1695年(元禄8)~1938年(昭和13)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
天王村は足羽川の下流左岸の平野に位置する。居所は2か所に分かれ、『越前国名蹟考』は枝村に上天王を挙げ、本村を「俗に莇生田天王と云」としている。江戸時代を通じて福井藩領。村高は「正保郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに722石余。1833年(天保4)には稲葉家(361石余)・荻野家(187石余)・永見家(81石余)・狛家(50石余)・波々伯部家(41石余)の知行地となっていた。また「高家数男女人別御改帳」(1844年)によれば、家数33軒、男71人、女61人。
加藤家は当村切っての高持ち(1833年には126石余)で、藩主の鷹野の際には御膳所を務めている。1855年(安政2)1月から56年8月までの大庄屋の「組下諸事御用留」があり、少なくともこの時期以降、福井藩の大庄屋を務め、帯刀・苗字・桐御紋上下着用などの免状が残され、また安政期には毎年30両の藩調達金の請取が残されている。明治初年の福井藩から足羽県時代には総会所調和方、引立世話役、里長、区組合総代、区戸長、郡中惣代助役戸長兼などを務めている。1884年(明治17)から91年まで足羽県選出の県会議員を務め、この間初代の六条村長も兼務している。ついで92年には衆議院議員総選挙に福井県第1区から出て当選、自由党(弥生倶楽部)に所属した(93年12月まで)。福井銀行の創立にかかわり、創業時には取締役を務めている。この他当家の資料からは足羽郡農会長・同郡会議員(明治20年代末から)、天王外三字の耕地整理組合長(大正年間)などの公職にあったことが確認できる。
資料群の概要
当家資料は(1)安政期以降の大庄屋文書など公職に関わる資料と(2)天保期以降の用水関係、畦直し、丈量野取帳など地租改正関係など村に関わる資料、および(3)文政期以降の婚礼・法事・火事見舞いや天保期以降の田畑卸米帳などの地主経営資料などの家に関わる資料に大別される。
(1)では「組下諸事御用留」(1855年)などの大庄屋文書は、量は多くないが、合谷村の片岡五郎兵衛家とともに福井城下周辺部の大庄屋資料として利用価値は高い。このほか(3)とも関連すると思われるが、福井藩の「組」あるいは「部屋」に属する在方の住人への貸金覚には「新中間」「御荒子」「御掃除」「御舟遣」「防」などの肩書きが見られ、また1846年(弘化3)には下六条村利兵衛は倅の新仲間召し抱えに際して高1石を質物に株金と会わせて銀228匁を借りた借用書、慶応年間の株仲間の連判による借用証文、明治初年の株譲証文などが残されることから、福井藩の卒族の株仲間の運営に関わっていたことが解る。さらに「元辻番組総連判証文の覚」(1870年10月)など江戸の辻番の株仲間関係の資料も若干見られる。
国会議員・県会議員関係など明治期以降の公職に関する資料は、1883年(明治16)の北陸自由新聞の休刊の社告および発起人総会決議と、90年代末からの足羽郡農会長、同郡会議員に関連する資料が若干残されている。
(3)では1868年(慶応4)以降の家の金銭出入を記録した当座帳(大正末からは万覚帳)が昭和戦前期まで残されている。また1841年(天保12)年より田畑卸米帳、貸方作徳指引帳、小作米取立帳などが1920年代(大正末期)まで断続的に残されていおり、なかでも明治初年から同末まで存在する貸方作徳指引帳では近在から福井市街地の住人など広範囲に貸し付けを行っている様子がわかり、(1)で触れた卒族の株仲間の金融との関連が注目される。
否撮カードはない。
利用条件
 
県史収載
 
県史以外の収載
 
複製本番号
A2778~A2802、A2804~A2909
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。