白方区有文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
A0035
資料群名
白方区有文書
地域(近世,行政村,現在)
坂井郡白方村,棗村白方,福井市白方町
資料の年代
1598年(慶長3)~1879年(明治12)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
白方村は三里浜丘陵のほぼ中央にあり、当村東方には沼沢を埋め立ててできた千町ケ沖と呼ぶ田が広がる。古代、東大寺領荘園であった高串荘は、当村を中心に隣村の米納津村(三国町米納津)や波寄村(福井市波寄町)あたりまで広がっていたと考えられており、その荘園絵図(「坂井郡高串村東大寺大修多羅供分田地図」)に描かれた沼沢状の「串方江」が、当村と米納津村との間で元禄年間(1688-1703)幕府にまで裁許を仰ぎ、その後も争論が絶えなかった対象地である沼沢「どす池」と考えられている。
当村は江戸時代を通じて福井藩領で、田方195石余・畑151石余の計347石余だが、1598年(慶長3)の「白方村検地帳」には計233石余であるから、113石余の増加であり、千町ケ沖の干拓によるものであろうか。また、同年の「坂井郡村々塩浜検地帳」(広浜伊左衛門家文書)には、当村に205間×80間の塩浜と釜5が記され、当村で製塩を行っていたことがわかる。
1842年(天保13)福井藩領の越前3郡29浦の平均免は4割5分6厘に対し、当村は2割以下であり、この頃ほとんど漁業を営んでおらず、実質は農業が主であったことがわかる(『通史編3』)。
資料群の概要
調査・撮影文書173点。近世のおもなものは、風損・砂囲普請関係、困窮に付き年貢減免・下行米願状関係、米納津村との悪水・魚猟(漁)場に関する争論関係、渡船諸費用割関係、宗旨五人組・男女人数・商売・鉄砲等改関係、検地帳関係、難船取扱関係、御条目・法度関係、田・山など割・籤関係、鳴鹿宿庭銭・口米銭争論関係、などである。なかでも、米納津村との悪水・魚猟(漁)場に関する争論関係は20余点と多く、舟通行、舟差押さえ、網など魚猟(漁)行為、用地荒れなどでの双方の出入は、元禄年間(1688-1703)幕府にまで裁許を仰ぎ、1812年(文化9)の内済以降も続き、魚漁(猟)に立脚した米納津村と農業を主とした当村の間の千町ケ沖の沼沢地をめぐる根深い対立を示す。
そのほか、村高を高持百姓の間で均等に割る所持高均等割の慣行がある村として、田・山など割・籤関係は興味深い。また、鳴鹿宿庭銭・口米銭争論関係では、当村関係者が大野・勝山まで塩を売り歩き、帰りにタバコを仕入れて売り歩いていたことがわかり、風損・砂囲普請関係では三里浜の飛砂に苦しんだ事、難船取扱関係では難破船の舟粕などが漂着した浦方の対応や三国湊の舟宿の対応がわかり興味深い。
明治以降のものは1888年(明治12)を最後として、明治初期の「租税上納割賦書」、「御高家数男女人馬御改帳」、「村惣締人別留帳」、「布告」、「通常村会議案書」などで12点ある。
否撮文書は142点で、ほとんど長帳・冊子類である。近世の主なものとして、砂除囲普請関係、高や苗代・新屋敷の均等割関係、破船関係、庄屋番定関係、米納津村との出入関係、水門など普請・人足関係などがある。明治以降は主なものでは、田畑・山・宅地の等級関係、丈量関係、学校新築などの人足関係、田租猶予願関係、県布告などで35点あり、1888年(明治21)のものがもっとも新しい。
利用条件
 
県史収載
通史編3 P.356・606、通史編4 P.476、資料編3 P.661-684 12点
県史以外の収載
『坂井郡古文書目録』
複製本番号
A0126~A0134
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。