松嶋一男家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
A0026
資料群名
松嶋一男家文書
地域(近世,行政村,現在)
足羽郡岩倉村,上文殊村岩倉,福井市岩倉町
資料の年代
1598年(慶長3)~1882年(明治15)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
岩倉村は文殊山の北東麓に位置し、もとは田中村の枝村。正保郷帳では「田中村岩倉村共ニ」とあるが、元禄郷帳では田中村と岩倉村に分けて記され、岩倉村の村高は320石余。当村は、江戸時代を通じて福井藩領で、給人知行地および蔵入地であり、1822年(文政5)当時は明石縫殿、波々伯部靫負、狛帯刀の知行地となっていた。
松嶋家の本国は越後で、本荘(現新潟県村上市)城主村上義明(忠勝)に仕え、1618年(元和4)村上家改易ののち高田藩主松平忠昌に150石で仕えた。24年(寛永1)忠昌が福井藩主として入部したので、当家もこ従して福井藩士となった。86年(貞享3)福井藩改易の際の家臣召放ちにより、当家は岩倉村に帰農した。
当家は系図等によると、この後七郎兵衛を名乗り、1710年(宝永7)には福井藩の組頭役を命じられたようである。14年(正徳4)に組頭役を務めていたことが当家資料から確認できる。その後、69年(明和6)におかれた福井藩の大庄屋役には任命されず、このころは岩倉村の給人方庄屋を務めていた(明石家文書参照)。まもなくして、大庄屋になったようで75年(安永4)ころには中領の大庄屋を務めている。1809年(文化6)には苗字を名乗り、22年(文政5)には帯刀を許され、27年には二人扶持を得た。また、27年には徳光・六条用水の仮井番となり、30年に大庄屋役とともに退役した。68年(明治1)12月、上領の大庄屋に任じられる。
当家の所持高は100石を超えており、1817年(文化14)は115石余、37年(天保8)は146石余である。
資料群の概要
当家の資料は、松嶋家伝来の資料と北野与治右衛門家旧蔵資料からなる。
前者は、(1)領知宛行状、(2)福井藩組頭・大庄屋関係資料、(3)岩倉村の村方資料、(4)徳光・六条用水関係資料、(5)御用留や万留、に大別される。
(1)は、越後村上家時代、高田藩主松平忠昌時代、および福井藩時代のものである。(2)は、当家が長年にわたり組頭や大庄屋として出入り内済にかかわったものであり、管下の村むらの種々の様相を知ることができる。岩倉村は給人知行地であったので、(3)からは給人支配や給人方庄屋役の選出などについて知ることができる。このほか、天保頃の岩倉村人の持高移動が知れる。(4)は、当家七郎兵衛が仮井番役にあったころのもので、井番給や諸盛帳などである。とくに、1827年(文政10)には徳光用水四郡割普請が行われ、その普請にかかわる加勢人足や諸色代としての銀4貫匁余が翌年から3年間に分けて領内四郡から徴集されたことがわかる。(5)は、1829年から38年(天保9)までと70年(明治3)の御用留、および88年から92年にかけての万記憶帳である。
後者の北野与治右衛門家旧蔵文書の出所である今立郡中新庄村(現武生市中新庄町)は、鯖江藩領内下新庄組に属する村で、村高は1275石余である。与治右衛門家は同村の庄屋役を務める。資料は、1824年(文政7)に行われた地割関係資料(そのほとんどが明治2-4年に写されたもの)、67年(慶応3)から70年(明治3)までの配布触書留帳、年貢関係資料、91年から1923年(大正12)までの当家の米穀売上帳などで、すべてが冊子類である。
当家伝来資料のうちの否撮資料は、1745年(延享2)以降の借銀証文や質証文がほとんどで、このほか越前国惣高付や敦賀県区分表などである。また、旧北野家資料の否撮資料は、天保期以降の貸付覚帳や慶応から明治にかけての諸人足帳、勘定帳、請取帳、およびおろし米取立帳などである。
利用条件
 
県史収載
資料編3 P.570-607 36点、通史編3 P.280・P.283、通史編4 P.135・P.235・P.319
県史以外の収載
『福井市史』
複製本番号
A0100~A0117、A0324~A0335
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。