橘栄一郎家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
A0016
資料群名
橘栄一郎家文書
地域(近世,行政村,現在)
足羽郡福井城下木田町,福井市寿町,福井市西木田
資料の年代
1441年(嘉吉1)~1881年(明治14)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
橘屋は、古くから著名な越前の商人で、由緒書によれば、紀州田辺城主田辺飛騨守が大治年間(1126-31)に越前へ下向して木田に居住したのを初代とし、その本家居屋敷は初代以来「居地を易えず、櫓を挙げ構の堀を築く」というもので、そこには以前から六地蔵があり、16代龍鳧(1611年没)の代まで構の堀の外で市が立ち、世人はこれを「地蔵の市」と称したという(「歴代由緒記并七居屋鋪部書」)。橘屋は木田一帯に複数の屋敷をもち、近世にも御朱印七屋敷といって由緒を誇った。その1つに観音堂屋敷があり、ここには松尾山の観音像が祀られていたという。この松尾は橘屋の本家居屋敷の西方一帯の古称で、14世紀には金融業を営む僧侶たちも居住していたことが知られ(「大音家文書」)、木田近辺は早くから北陸道沿いの要地として賑わっていた。
資料群の概要
当家文書約300点のうち、朝倉時代より織豊期までの文書は50余点にのぼり、この時代の文書の少ない福井市にあって、貴重な存在であり、当家資料を使った通史編の記述も多い。以下にその数例をあげる。橘屋は8代常円(1372年没)のときに観音の霊夢により調合薬を始めたという由緒をもち、早くから薬種を調合して販売することを本業としていた。1557年(弘治3)「朝倉義景免許状」によれば、橘屋は屋敷の門に「門験」すなわち看板を掲げ、薬の袋には「橘」の字の銘のある印を捺してその品質を保証していた。朝倉氏はこうした特権を橘屋の惣領一人に限ることにより家業継続を確保させ、また家業とは直接関係のない酒売買座の特権も新たに与えている。しかし親類などのなかで勝手に調合薬を売る者が出たため、1571年(元亀2)橘屋はこれを朝倉氏に訴え、さらに諸商売と諸役免除を求めて1441年(嘉吉1)の「藤原長政奉綸旨写」を捧げて訴えた。朝倉氏はそれを認めて同年12月に免許状を出している。
朝倉氏が滅びると橘屋も信長に従い、軽物座の長たることを認められた。以後、橘屋は織田政権から軽物座と唐人座の統轄を命じられることになるが、この唐人座とは、その役名が「袋役」ともいわれることから橘屋の本業の薬種調合と理解される。また軽物座の取り沙汰については、1578年(天正6)の柴田勝家判物によれば、慶松太郎三郎と橘屋三郎左衛門の両人が分国内についてあたることとされており(「慶松家文書」)、三か荘の有力商人の系譜を引く両家は、織豊政権にも順応して栄えたことがわかる。
関ケ原の戦いのあと、北庄の城主青木一矩が病死したことで除封となり、その跡に保科正光が在番として入ったこと、橘屋への諸役免除の仲介を一矩の家臣である林伝右衛門が行っていることから、一矩の北庄入城が円滑になされたことなどが当家文書でわかる。
近世文書は由緒書・系図類の他、橘七屋敷関係文書、法橋位・帯刀御免願、売薬関係文書、書状類に大別されるが、これ以外に1691年(元禄4)「初句付 誹(ママ)諧巻」があり、選者とおもわれる「一遊軒洞哉」の名前が注目される。なお、県立図書館に当家の橘宗賢が1769年(明和6)から75年(安永6)までのことを記録した「伝来年中日録」がある。
否撮カードは40枚(書状、証文類など一括されているものがあるので点数は約120点)。
利用条件
県立博物館所蔵分のみ公開許諾済。
県史収載
資料編3 P.437-464 76点、通史編2 P.786 P.794 P.806-808 P.824 P.841、通史編3 P.35 P.49-51 P.83 P.126 P.444 P.498 P.514、通史編4 P.395
県史以外の収載
『越前若狭古文書選』『福井市史』『越前の豪商「橘屋」』など多数
複製本番号
A0083-2~A0083-5
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。