小沢藤兵衛家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
A0008
資料群名
小沢藤兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
吉田郡幾久村,円山西村幾久,福井市大宮
資料の年代
1606年(慶長11)~1951年(昭和26)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
幾久村は福井城下の北東に隣接し、北陸街道沿いに位置する。江戸時代をとおして福井藩領、「正保郷帳」では久末村と称し、村高851石余。
小沢家は、代々藤兵衛を名乗り、庄屋、組頭を務めた。所蔵資料からは1697年(元禄10)から1742年(寛保2)ごろにかけて下領の組頭を務めていたことがわかる。さらに、明治10年代に入り当家を後見した和田庄之丞が、大野郡中島村他10か村戸長、その後円山西村助役を務めたことから、これらの役場文書の一部が含まれる。
資料群の概要
資料群は、(1)畦直(内検・割地)、用水などの村方文書(2)地租改正再調査関係、(3)大野郡中島村他10か村戸長役場関係、(4)円山西村役場関係、(5)小沢家の家文書、(6)収集文書から構成される。
(1)畦直関係では、福井藩領で広範に行われた1669年(寛文9)のものが時期的に早く、ほかに1740年(元文5)、1819年(文政2)の文書がある。用水関係では元禄期以降、明治期にかけての九ケ用水、外輪用水などの普請資料がある。また比較的早い時期のものとして、1675年(延宝3)の年貢収納をめぐる庄屋と村民の争論の訴状がある。
1682年(天和2)に平岡山から幾久村に移された福居惣三昧に関する文書、同村に置かれた清王村照厳寺の支坊に関するものも含まれる。
また、村方の争論には近隣の有力農民が扱人となって内済することが多く、1831年(天保2)の重立村の争論では、給人への雑用の納方をめぐって、頭分と小前百姓が対立して、藤兵衛が調停を行ったようである。1725年(享保10)の「下領村々高家并出人牒」からは、下領10組の構成・組頭などがわかる。
(2)越前7郡下の地租軽減運動は、1879年(明治12)12月に再調査決定の成果を得た。小沢家には、翌年にかけて幾久村近隣の村々から提出された願書・上申書類約50点がまとまって残されている。再調査の手続きに対する改正願、収穫反米・検査額の決定方法、地主総代や組合総代の資格・選挙をめぐって頻繁に伺書が提出され、改善が求められていた。この間、土佐の立志社員が代理人に委任されている。この代理人や地主総代の委任にあたっては、村々で約定・誓約書が交わされていた。
(3)大野郡中島村他10か村戸長役場については、1887年(明治20)から89年にかけて、(4)円山西村役場については、和田が助役を務めた89年の行政村の発足当初から94年度までの書類がある。93年からの北陸線敷設関連の書類が含まれる。
これらは、簿冊に綴られた本来の役場文書ではなく、吏員の手持ち書類と推測される。案や控えが少なくないが、量的には約1700ページとまとまったものである。
(5)家文書では、文化期以降の袴縁上・御鷹野膳所など御免願、小沢家との関わりは明らかにできないが、笠原白翁などから幕末の文人蒔田雲処宛書状、県下常備兵から陸軍に移り、西南戦争で戦死した旧福井藩士泉教武の文書などが含まれる。
(6)の収集文書は、資料編掲載の豊臣秀吉書状、徳川家康書状など3点である。
否撮文書は、天保期以降昭和期までの小作おろし帳・万覚帳など長帳類約100冊、借金証文、中島村他10か村書類綴(徴兵、地方税等)などである。
利用条件
 
県史収載
資料編3 P.381-400 13点、資料編10 P.345-353、資料編11 P.420、通史編3 P.320 P.351
県史以外の収載
『福井市史』
複製本番号
A0019~A0026、A2727~A2729
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。