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福井県教育総合研究所教育博物館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
C0133
資料群名
三国南小学校(大正自由教育)関係資料
地域(近世,行政村,現在)
坂井市三国町
資料の年代
1902年(明治35)~1924年(大正13)
資料目録件数
25
組織歴および履歴
1872(明治5)年に学制が発布されると、西光寺(三国町南本町2丁目)を学舎とする官立の修齊小学校が創立された。これが三国南小学校の前身である。1876(明治9)年には近隣の二校と合併し、龍翔小学校と改称。この頃から校舎新築の議が起こり、興ヶ岡地区(性海寺所有地、三国町南本町4丁目)で建設工事が始まった。当時の三国湊は北前船による交易が空前の繁栄期を迎えた時代であり、巨額の建設費はすべて地域の有志からの寄付で賄ったという。1979(明治12)年に木造五層八角形の校舎が完成し、龍翔小学校(明治25年に三国尋常高等小学校と改称)は三国湊のシンボルとして地域住民に親しまれた。
明治末期になると、校舎老朽化のため興ヶ岡から中元地区(三国町山王2丁目)に移転。1919(大正8)年には三好得恵が校長に迎えられ、いわゆる「自発教育」の研究と実践に力を入れた。1924(大正13)年にはドルトン・プランの創始者であるアメリカのヘレン・パーカースト女史が参観するなど、大正自由教育の最先端の学校として全国からも注目された。
1932(昭和7年)、前年に発生した火災のため校舎を山上西地区(三国町山王1丁目、現小学校の敷地)に移転。1941(昭和16)年には三国南国民学校、1947(昭和22)年三国町立三国南小学校と改称、町村合併により2006(平成18年)には坂井市立三国南小学校と改称し、現在に至る。
2019年12月、龍翔小学校校舎の模型および自発教育関係資料4点を福井県教育博物館に寄託。
2021年12月、掛図8点を追加寄託。
明治末期になると、校舎老朽化のため興ヶ岡から中元地区(三国町山王2丁目)に移転。1919(大正8)年には三好得恵が校長に迎えられ、いわゆる「自発教育」の研究と実践に力を入れた。1924(大正13)年にはドルトン・プランの創始者であるアメリカのヘレン・パーカースト女史が参観するなど、大正自由教育の最先端の学校として全国からも注目された。
1932(昭和7年)、前年に発生した火災のため校舎を山上西地区(三国町山王1丁目、現小学校の敷地)に移転。1941(昭和16)年には三国南国民学校、1947(昭和22)年三国町立三国南小学校と改称、町村合併により2006(平成18年)には坂井市立三国南小学校と改称し、現在に至る。
2019年12月、龍翔小学校校舎の模型および自発教育関係資料4点を福井県教育博物館に寄託。
2021年12月、掛図8点を追加寄託。
資料群の概要
資料は25点。自発教育関連の資料には、三好校長の著書『自発輔導主義学習法』の原稿、自発教育法の研究や児童の作品を掲載した『力いっぱい』、同校のアルバムに保存された当時の授業や学校行事の様子を撮影した写真および同校で作成した絵はがき等があり、写真からは全国から注目された公立小学校における自発教育の様子がうかがえる。
また、老朽化に伴い1915(大正4)年に取り壊された龍翔小学校校舎の模型がある。
資料番号00205、00214~00225の絵葉書および写真資料は、博物館の寄託資料ではないため、画像のみ公開している。
また、老朽化に伴い1915(大正4)年に取り壊された龍翔小学校校舎の模型がある。
資料番号00205、00214~00225の絵葉書および写真資料は、博物館の寄託資料ではないため、画像のみ公開している。
県史収載
 
県史以外の収載
『三国南小学校百年史』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
 
利用上の注記(二次利用)
 
利用条件(文書館)
 
複製本番号
 
関連資料一覧
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