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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
F0062
資料群名
土屋得所家文書
地域(近世,行政村,現在)
鯖江城下,鯖江町,鯖江市
資料の年代
1725年(享保10)~1924年(大正13)
資料目録件数
482
組織歴および履歴
おもに鯖江藩医土屋得所(1814~67)とその子息 裕(1845~1906)の父子の医師二世代の資料群である。
土屋家は、正徳年間(1711~16)に初代雲格(為政)が間部家に仕えたとされ、2代仲宅(振之)は外科を兼任し、匙頭となった。3代仲宅(道意、尹之)と4代得所(秀佑、秀祐、篤之)はともに勝山藩医秦家から養子に入った(「越前鯖江土屋家明細書」00096)。
土屋得所は京都の百々漢陰に学び、1846年(弘化3)には江戸在番中に伊東玄朴に入門して蘭方を学んでおり、鯖江藩の種痘事業を主導した。鯖江藩では、1850年(嘉永3)3月に福井藩町医笠原良策から分苗を受け、仲宅方で種痘開始した。安政期に入ると安定した種痘の継続が可能となり、藩の大庄屋組のひとつであった池田地域では、村医であり大庄屋であった斎藤庄三郎の調整によって組内36か村で2か年間の継続的な出張種痘が実現した。
土屋裕は、1861年(文久元)から大槻俊斎に入門して修行を始め、翌年佐倉藩の佐藤尚中(舜海)に入門して蘭方を学んだ(~1867年)。1867年(慶応3)の家督相続後には、長崎の精得館(長崎病院・医学校)に入門し、マンスヘルドやゲールツに学んだ(~1870年)。その後長崎医学校附属病院に勤務したのち、75年(明治8)から岐阜県医学校長兼病院長となった。81年に鯖江に戻り開業し、今立医師組合長等を務めた。1890年から1年間ウィーン大学へ留学。
土屋家は、正徳年間(1711~16)に初代雲格(為政)が間部家に仕えたとされ、2代仲宅(振之)は外科を兼任し、匙頭となった。3代仲宅(道意、尹之)と4代得所(秀佑、秀祐、篤之)はともに勝山藩医秦家から養子に入った(「越前鯖江土屋家明細書」00096)。
土屋得所は京都の百々漢陰に学び、1846年(弘化3)には江戸在番中に伊東玄朴に入門して蘭方を学んでおり、鯖江藩の種痘事業を主導した。鯖江藩では、1850年(嘉永3)3月に福井藩町医笠原良策から分苗を受け、仲宅方で種痘開始した。安政期に入ると安定した種痘の継続が可能となり、藩の大庄屋組のひとつであった池田地域では、村医であり大庄屋であった斎藤庄三郎の調整によって組内36か村で2か年間の継続的な出張種痘が実現した。
土屋裕は、1861年(文久元)から大槻俊斎に入門して修行を始め、翌年佐倉藩の佐藤尚中(舜海)に入門して蘭方を学んだ(~1867年)。1867年(慶応3)の家督相続後には、長崎の精得館(長崎病院・医学校)に入門し、マンスヘルドやゲールツに学んだ(~1870年)。その後長崎医学校附属病院に勤務したのち、75年(明治8)から岐阜県医学校長兼病院長となった。81年に鯖江に戻り開業し、今立医師組合長等を務めた。1890年から1年間ウィーン大学へ留学。
資料群の概要
撮影資料は482点で、土屋得所が残した(1)鯖江藩種痘関連、(2)藩への願書・上申書類の控、土屋裕(寛之)の修行期に(3)主として父母との間で交わされた往復の書状類、土屋寛之による(4)長崎医学校関連、(5)岐阜県医学校関連、(6)今立郡医師組合関連、(7)土屋病院の医療・経営関係資料、(8)筆写・編纂された土屋家関係資料に大別される。なお、これ以前のものとしては、2代仲宅の代の門人の起請文「神文之事」がある(00003)。
(1)鯖江藩種痘関連では、「種痘一件記録」「(無題)」「種痘館医学館建営一件記」など袋入りの21点(00025~45、その一部が『福井県医師会史』2で翻刻)のほか、種痘開始時の大目付・側目付達書(00018)、「種痘会計録」(1867年)、「種痘金銀元帳」(1870年)、藩主間部詮勝等に種痘の再接種を進めた書状類(00047-50)などがある。ほかに直接種痘には関連しないが、得所の死の直前にその深刻な病状を裕あてに書き送った笠原良策(白翁)の書状、ほかに笠原の書状が6点、漢詩1点がある。
(2)「医学振起編 私部・推挙部・公部」(00046)からは、安政期に相次いで出された町在の医業者を藩奥医師に入門させる触書(55年 2 月)、藩医および町在医師に対する西洋法兼学・兼用の触書(56年 4 月)が、いずれも得所の口上書等に基づいていたことがわかる。ほかに慶応期に裕を通して蘭書130両ほどを買い付けた際の藩への願書・覚書等がある(00051~59)。これ以外には得所の門人帳「修贄録」(00068)がある。1834年(天保5)から1867年(慶応3)まで、鯖江藩医や領内の村むらを中心に62名の門人がわかる。
(3)は、1861年(文久元)から67年(慶応 3 )頃までのおもに父得所・母まき・子裕を中心とした240点ほどの大部な書状類である(00125~362)。ほとんどの書状には年の記載はないが、おそらく裕と推測される後筆で年が書き加えられている。目録上の年紀はこの後筆に従った。
当初入門した晩年の大槻俊斎の塾や江戸の種痘館出張所・西洋医学所のようす、佐藤尚中塾への転塾から麻疹罹患とコレラの流行、水戸浪士の動向と塾への影響などが詳細に記され、多様な視点から分析が可能である。また、父得所の送状の際には、多くの場合で母まきも手紙を書いている。裕も父とは別に母に向けて返書を認めており、ジェンダー研究の視点からも分析が求められる。
寛之関係では、(4)長崎医学校関連では、寛之が翻訳した講義録としてレウエン「原生学」(組織学)、「生理学」(00376~378)、ゲールツ「植物学」(00375)、試験問答等、(5)岐阜県医学校関連では、「病院規則」「附属医学校規則」(1878年、00393・394)、「岐阜県在勤記事」(1875~88年、00383)、県医学校創立時の備品類の記録(00384)、「売薬検査控」(00385)、「写真器并ニ薬品値段記」(00390)等がある。
(6)今立郡医師組合関連では、同「規約」(00400・401)、今立郡・南条郡開業医師名簿を含む「今立郡医師組合諸記事」(00397)、(7)土屋病院の医療・経営関係資料では、「土屋病院沿革史」(1892~1908年、00418、『福井県医師会史』2収載)、明治30年代を中心とする収支決算表、20年代を中心とする会計簿があり、10年代から30年代にかけての「患者実験録」(診療記録)がある。
(8)寛之が筆写・編纂した土屋家関係資料では、初代雲格から5代寛之までの資料の忠実な筆写を含む詳細な「越前鯖江土屋家明細書」、東京やウィーン遊学時の日記、「鯖江旧藩主間部家政関係記」「間部詮信公経費一覧表草稿」などである。
否撮カードは、土屋寛之の手帳、ウィーン滞在時の資料、「温故輯」などの覚書、明治期の土蔵・病院普請関連など81枚である。これ以外、近代の書簡類は未調査である。
(1)鯖江藩種痘関連では、「種痘一件記録」「(無題)」「種痘館医学館建営一件記」など袋入りの21点(00025~45、その一部が『福井県医師会史』2で翻刻)のほか、種痘開始時の大目付・側目付達書(00018)、「種痘会計録」(1867年)、「種痘金銀元帳」(1870年)、藩主間部詮勝等に種痘の再接種を進めた書状類(00047-50)などがある。ほかに直接種痘には関連しないが、得所の死の直前にその深刻な病状を裕あてに書き送った笠原良策(白翁)の書状、ほかに笠原の書状が6点、漢詩1点がある。
(2)「医学振起編 私部・推挙部・公部」(00046)からは、安政期に相次いで出された町在の医業者を藩奥医師に入門させる触書(55年 2 月)、藩医および町在医師に対する西洋法兼学・兼用の触書(56年 4 月)が、いずれも得所の口上書等に基づいていたことがわかる。ほかに慶応期に裕を通して蘭書130両ほどを買い付けた際の藩への願書・覚書等がある(00051~59)。これ以外には得所の門人帳「修贄録」(00068)がある。1834年(天保5)から1867年(慶応3)まで、鯖江藩医や領内の村むらを中心に62名の門人がわかる。
(3)は、1861年(文久元)から67年(慶応 3 )頃までのおもに父得所・母まき・子裕を中心とした240点ほどの大部な書状類である(00125~362)。ほとんどの書状には年の記載はないが、おそらく裕と推測される後筆で年が書き加えられている。目録上の年紀はこの後筆に従った。
当初入門した晩年の大槻俊斎の塾や江戸の種痘館出張所・西洋医学所のようす、佐藤尚中塾への転塾から麻疹罹患とコレラの流行、水戸浪士の動向と塾への影響などが詳細に記され、多様な視点から分析が可能である。また、父得所の送状の際には、多くの場合で母まきも手紙を書いている。裕も父とは別に母に向けて返書を認めており、ジェンダー研究の視点からも分析が求められる。
寛之関係では、(4)長崎医学校関連では、寛之が翻訳した講義録としてレウエン「原生学」(組織学)、「生理学」(00376~378)、ゲールツ「植物学」(00375)、試験問答等、(5)岐阜県医学校関連では、「病院規則」「附属医学校規則」(1878年、00393・394)、「岐阜県在勤記事」(1875~88年、00383)、県医学校創立時の備品類の記録(00384)、「売薬検査控」(00385)、「写真器并ニ薬品値段記」(00390)等がある。
(6)今立郡医師組合関連では、同「規約」(00400・401)、今立郡・南条郡開業医師名簿を含む「今立郡医師組合諸記事」(00397)、(7)土屋病院の医療・経営関係資料では、「土屋病院沿革史」(1892~1908年、00418、『福井県医師会史』2収載)、明治30年代を中心とする収支決算表、20年代を中心とする会計簿があり、10年代から30年代にかけての「患者実験録」(診療記録)がある。
(8)寛之が筆写・編纂した土屋家関係資料では、初代雲格から5代寛之までの資料の忠実な筆写を含む詳細な「越前鯖江土屋家明細書」、東京やウィーン遊学時の日記、「鯖江旧藩主間部家政関係記」「間部詮信公経費一覧表草稿」などである。
否撮カードは、土屋寛之の手帳、ウィーン滞在時の資料、「温故輯」などの覚書、明治期の土蔵・病院普請関連など81枚である。これ以外、近代の書簡類は未調査である。
県史収載
 
県史以外の収載
『福井県医師会史』 2 、1986年、p.82~144
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
 
利用上の注記(二次利用)
 
利用条件(文書館)
 
複製本番号
F0771-F0842
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