17 地方都市・福井(1) | ||
1889年(明治22)の市制施行時に約4万人であった福井市の人口は、絹織物業の発展によって大正末年には6万人に達しました。この間、約60万人でほぼ人口が停滞していた県内においては、福井市は、最も近代都市的な様相をもっていた街といえるでしょう。 福井市では、1912年2月に公営事業としてガス事業が開始されました。さらに18年(大正7)8月の米騒動の勃発は、都市整備の必要性を強く認識させる契機となりました。翌年には4か年の継続事業で水道事業が可決、ごみの収集が市営とされ、また公設市場・市営住宅・職業紹介所・共同宿泊所などの施設もつぎつぎに整えられました。 |
▲「福井市都市計画図」(1938年) 都市計画指定区域は、都市の発展に秩序をあたえようとするものだった。商業地域は、最もにぎやかだっ た足羽川両岸、北陸線鉄道橋以西花月橋にいたる一帯で、全体の21%を占めていた。工業地域は地下 水が豊富でかつ良質な橋北(足羽川以北)の北陸線の東部、橋南の北陸線および福武電気鉄道の沿線、 さらに西部の社村と東安居村地内があてられた(10%)。これらの土地の周辺部に住居地域(45%)を配 置していた。 福井県蔵 |
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さらに周辺の村むらでも、第1次世界大戦後の10年間に農業人口が6割から4割に低下し、かわって工業従事者が顕著に増加していました。17年7月、市街地にあった金沢監獄福井分監が、足羽郡木田村へ移転したのに始まって、福井高等工業学校の吉田郡西藤島村での開校、日本赤十字社福井支部病院の市街地南端(月見町)での開設など、公共施設の市周辺部への移転・建設が進んでいました。あわせて、17年から19年までの間に焼失戸数100戸以上の大火が5回も発生したこともあって、道路の拡張、上水道の整備などの都市計画がいっそう求められることになりました。 |
▲福井市ガス局(1933年) 福井市立郷土歴史博物館蔵 |
▲福井職業紹介所(1933年) 福井市立郷土歴史博物館蔵 |
▲日ノ出公設市場(1933年) 福井市立郷土歴史博物館蔵 |