12 国民皆学の実現(1)
           福井に置かれた石川県第三師範学校(1878年)
           ▲福井に置かれた石川県第三師範学校(1878年)
           1877年(明治10)2月、石川県管轄下で設置された第三師範学校は、翌年5月に校舎を新築した。右側の
           棟は附属小学校。明治天皇の北陸巡幸に際して、撮影されたものと思われる。     宮内庁書陵部蔵
 明治20年なかばから上昇しはじめた福井県の就学率は、全国的な動向と同様に、30年代なかばには9割をこえます。とくに、1890年(明治23)に、全国で36位と低かった女子の就学率が、この間にめざましく上昇していきました。学制発布からわずか30年で、小学校は、社会階層や性別にかかわらず、地域のほとんどの子どもたちが通うものとなったのです。

 増大する小学校の校舎建築費や教員の俸給は、国庫補助が開始される1918年(大正7)まで、ほぼ全額が市町村の税金や寄付金によってまかなわれました。「国民皆学」を実現するため、市町村の歳出に占める教育費の割合は高く、5割をこえることも少なくありませんでした。

 地域社会に支えられた学校教育の量的なひろがりは、同時により広い層を試験競争に方向づけることにもなりました。明治前期の学校は、厳格な試験に合格した者のみが進級できる制度をとっていました。明治10年代に入ると、定期的な進級試験以外にも、県令や師範学校教官などが臨席し、父兄や地域の人びとにも公開された競技会のような試験が、石川・滋賀両県下で始められました。

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