35 水戸浪士(2)
 加賀藩は、敦賀の本勝寺・本妙寺・長遠寺に収容された浪士を丁重に世話しましたが、65年(慶応1)1月27日に浪士は幕府の役人に引き渡されて、にわか造りの獄舎とされた船町のにしん蔵に収容されました。にしん蔵の窓は釘付けにされ、中央に便所がつくられ、左の足には足かせをはめられ、うす暗いなかで、自由に行動ができないようにされていました。また食事も握り飯1つとぬるま湯だけという粗末なものでした。

 2月になると、幕府役人は永覚寺に仮の白洲をつくり、浪士たちをよび、形式的な調べをして、つぎつぎと来迎寺に設けられた刑場で処刑していきました。耕雲斎も2月8日に処刑されました。処刑された人数は、353名にのぼりました。現在も来迎寺の裏には、処刑された浪士の墓があります。
武田耕雲斎
▲武田耕雲斎(1804〜65)  
               敦賀市 松原神社蔵 敦賀市立博物館寄託
「水府正士浜荷蔵江入図」
▲「水府正士浜荷蔵江入図」                   敦賀市 山本勝久氏蔵
 にしん蔵
 ▲にしん蔵
 1954年(昭和29)に90年祭を記念して、松原神社の境内に
 移築されたものである。              敦賀市松原

「水府正士於松原御仕置之図」
▲「水府正士於松原御仕置之図」                敦賀市 山本勝久氏蔵
    武田耕雲斎所用の陣羽織
    ▲武田耕雲斎所用の陣羽織
              敦賀市 松原神社蔵
              敦賀市立博物館寄託  

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