16 戦国大名朝倉氏(1)

     朝倉孝景(英林)画像
     ▲朝倉孝景(英林)画像             福井市 心月寺蔵
   朝倉義景画像
   ▲朝倉義景画像            福井市 心月寺蔵
 応仁の乱中の1471年(文明3)に朝倉孝景(英林)は、将軍足利義政より越前支配権を認めるという密約を得て東軍に寝返り、敵対する甲斐・斯波氏を退けて越前の支配者になりました。16世紀になると隣国加賀の一向一揆の脅威はありましたが国内は安定し、一乗谷奉行人・府中奉行人にみられるような行政・裁判の制度も整備されました。とくに一乗谷には多くの文人・学者が訪れて一乗谷朝倉文芸とよばれるような活気をみせました。しかしこの安定は停滞をも生みだし、朝倉氏には西国や東国の戦国大名にみられるような領国拡大の積極性はなく、検地なども行われていませんでした。孝景(英林)の条々には国支配の維持は「国主の心つかい」によると記されていますが、もはや心構えだけでは限界のある時代になっていたことを、早くに戦国大名となった朝倉氏は感じることが弱いまま、滅びてしまいました。
朝倉孝景(宗淳)安堵状
                         ▲朝倉孝景(宗淳)安堵状
                         永正3年の一向一揆により坂井郡瀧谷寺の文書が紛失したため、
                         1513年(永正10)に孝景はあらためて同寺の買得地・寄進地を安
                         堵した。                          三国町 瀧谷寺

  国中寺庵十分一の免除を伝えた文書(1531年) 
  ▲国中寺庵十分一の免除を伝えた文書(1531年)
  朝倉氏は「国中寺庵拾分一」と称して、越前国内の寺庵に寺庵役を賦
  課した。この文書は一乗谷奉行人が、「小谷寺」(丹生郡大谷寺)へ寺
  庵役の免除を通達したもの。            朝日町 越知神社蔵
足羽郡一乗谷













足羽郡一乗谷
写真上に上城戸、下に下城戸、中央左に
朝倉館跡がある。
       一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供

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