18 源平合戦と北陸道(1)
燧城付近
▲燧城付近
燧城跡
▲燧城跡
中世にも山城として使用され、堀切・石垣などが残る。
 平安時代末、源平の合戦が繰り広げられると、越前の地も戦闘の舞台となりました。1180年(治承4)4月、後白河法皇の皇子以仁王の出した平氏追討の令旨に呼応し、源頼朝が伊豆で、源(木曾)義仲が信濃で挙兵し、義仲が北陸道を進撃すると、越前以東の諸国の武士はその陣営に参加しましたが、その中には越前の斎藤一族もいました。こうして北陸は義仲の掌握下に入ったのです。

 1183年(寿永2)4月、平維盛は10万の大軍を率い、義仲追討に向かいました。これより先、義仲は越前に燧(火打)城(今庄町)を築いていました。日野川を眼下に望む西岸の山の端に位置し、まわりを高山が囲み、日野川と鹿蒜川が側を流れる要害の地です。ここに平泉寺長吏斎明(斉明)・稲津新介ら6000余騎がこもっていました。斎明は義仲の命を受け、1000余騎で平泉寺から大野郡・池田を越えて入城していたのです。そこでは両川の合流点に大木を倒し柵をかけ、大石を重ねて川をせき止め、湖のようにしたため、鹿蒜山まで進んできた平氏軍は、進撃することができませんでした。

 ところが、斎明が平氏方に密かに内通し、柵を切れば水は落ちると知らせたため、維盛はそれに従い燧城に攻め入ることができ、城を落としいっきに加賀まで勝ち進みました。その後、越中小矢部の般若野での戦闘をはさみ、平氏軍は維盛率いる本隊7万騎が、加賀と越中の境に位置する倶利伽羅山を越中へと進み、搦手として平通盛・知盛が3万騎を率いて能登の志雄山(志保山)に向かいました。これに対し越後から越中に出てきた義仲は、4万騎を6手に分け、敵の本隊を倶利伽羅峠で夜中に奇襲し、谷へ落とし撃滅することに成功、さらに敗走していた搦手の源行家の援軍に向かい、そこでも平氏軍を撃破したことはよく知られているところです。
火打(燧)合戦の一場面
▲火打(燧)合戦の一場面
平泉寺長吏斎明の平氏方への寝返りで燧城に攻め入る平氏勢と退脚する義仲勢。 この後、はじめ平氏方、そして義仲方、
再び平氏方と寝返りを繰り返していた斎明は、倶利伽羅峠の戦いで義仲勢に生け捕られ、首を討たれた。
                                                    「平家物語絵巻」 岡山市 林原美術館蔵

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