14 愛発関と恵美押勝の乱(2)
 愛発関は、今の敦賀市疋田を通る道筋にあったとみられていますが、若狭からのルートである同市の関峠にあったのではないかとの見解も出されています。今後の調査によっていずれ位置が確定する日がくるでしょうが、不破関などから復原できる当時の関の構造からすると、1つの道を押さえるだけでなく、複元の道に大関・小関が置かれるという複合的構造をしており、その全体を愛発関とよんでいたと考えた方がいいでしょう。   敦賀市疋田付近
  ▲敦賀市疋田付近
  写真下半中央に中世の疋壇城跡がある。JR線や国道が狭い谷を
  通り抜けている交通の要所であり、愛発関の候補地の1つになって
  いる。写真中央やや下の国道が合流するあたりに今も検問所があ
  る。写真上の平野が敦賀平野。平野に出たあたりを道口(みちのく
  ち)といい、この付近も愛発関の候補地である。
                     福井県埋蔵文化財調査センター提供
 近江・越前国境付近の交通路
 ▲近江・越前国境付近の交通路
 恵美押勝一行は、『延喜式』(10世紀前半)に
 記載されている湖西の官道を北上し、愛発関を
 突破しようとして果たせなかった。ただし、愛発
 関がどこか不明であり、恵美押勝一行がたどっ
 たルートはいろいろと考えられている。図には、
 現在も使われているルートを示してみた。なお、
 図中の松原駅・鹿蒜駅・鞆結駅の位置も確定さ
 れていない。            拡大図 66KB
不破関の復元模型
▲不破関の復元模型
土塁で囲まれた中を東西に東山道が走る。その北に接して1町
(約109メートル)四方の築地で囲まれた関務所があった。愛発
関のあり方を考える参考となる。
                       岐阜県 不破関資料館蔵

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