3 前方後円墳の時代(3) | |
若狭の前方後円墳は5世紀にはいると突然つくられ始め、6世紀ごろまで続きます。標高100メートル前後の山上にある少数のものをのぞけば、ほとんど北川流域の平野部に分布しています。 これらの古墳に葬られた若狭の大首長たちは、ヤマト王権内で大王家の食膳を担当した畿内の有力首長で、将軍として朝鮮半島に派遣された膳臣の系譜につながるとみられています。朝鮮半島からもたらされたと考えられる金製垂飾り付耳飾りが、本州で最も古い時期に属する横穴式石室をとりいれた上中町の向山一号墳などから出土しています。 若狭は対朝鮮半島政策のうえで重要な位置を占めていたと考えられるほかに、古墳時代に始まる若狭の塩作りは、ヤマト王権に貢納するためでもあったらしく、ヤマト王権の「御食国」としても重要な位置を占めていたと考えられています。 |
▲脇袋古墳群 写真中央の上ノ塚古墳(墳長100m)は、若狭に おける最初の大首長墳で、周濠・葺石・埴輪を 備え、3段築成である。背後の山は膳部山。 古墳時代中期〜後期 上中町教育委員会提供 |
6世紀後半から7世紀初めにかけて、県内では前方後円墳はつくられなくなり、小さな円墳や横穴墓からなる群集墳にみられるように、支配されていた人びとのなかからも古墳をつくる動きがあらわれます。 この古墳時代は、弥生時代よりもさらに耕地の開発が進み人口も増加しましたが、人びとの間の身分の隔たりもひろがりました。大型の古墳からは、たくさんの副葬品にまじって金、銀でメッキした冠や純金の耳飾りが出土していますが、群集墳からは耳飾りが出土したとしても、それはせいぜい銅輪に金箔を貼り付けただけのものにすぎないのです。 |
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▲十善の森古墳 天徳寺古墳群中。周濠と埴輪を備え、前方部と後円部に横穴式石室がある。 古墳時代中期末 墳長67m 上中町教育委員会提供 |
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▲上中地域の主要古墳分布図 『若狭歴民だより』3より作成した。[拡大画像] |