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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    五 合併後の市町村行政
      経済振興と交通対策
 第二次池田勇人内閣は、一九六〇年(昭和三五)の国民所得倍増計画発表に続いて、全国総合開発計画の策定に着手し、六二年一〇月に「都市の過大化防止」と「地域格差の是正」を目標とする全国総合開発計画を閣議決定した。これに先立って福井県は六一年六月に福井県総合開発計画を策定した。この計画は県経済の後進性からの脱皮が緊要であるとして、高度な成長産業を誘致して農業県から工業県への転換をはかろうとするものであった。この時期、福井県の各市町村は経済開発に強い関心を示し、「工場誘致条例」を制定した。金津町は、六一年三月に「金津町工場誘致条例」を制定し、誘致が実現した西野製紙金津工場に対し、町は一二〇〇万円の助成を行った。しかし、六二年には、この工場の廃液による竹田川汚染が深刻となり、「黒い水問題」として大きな公害問題に発展し、町はその対策に苦慮することになった(第五章第二節三)。六二年にはさらに二工場の誘致が実現した。しかし、その後も高度経済成長のなかで都市の過密化と農村の過疎化がますます進み、七〇年代に入ると県内の各町村は過疎化への対策に追われることになった。
 その一つが電車、バスの赤字問題である。六八年六月に国鉄諮問委員会はローカル赤字路線八三線の廃線を勧告したが、そのなかに越美北線と三国線が含まれていた。この勧告とほぼ同じ時期に、京福電鉄永平寺線、細呂木方面バス、東山経由丸岡バスの廃止問題もおこった。三国線の廃線問題に対し、金津、芦原、三国の三町は六八年一一月に三国線存続期成同盟会を設立し、運輸省、国鉄本社、金沢鉄道管理局などに反対陳情を行った。国鉄は三国線廃線にからむ金津駅拠点化構想を打ち出し、その後三町と国鉄の折衝協議が続き、七一年一一月に三町は廃線に同意した。この結果、金津駅を拠点駅として整備し芦原温泉駅と改称し、代替輸送機関として国鉄バスの運行が決定した。一方、京福電鉄永平寺線の金津・東古市間も六九年九月に廃線となった。また、金津町は県内ではじめての町営バスの運行を企画し、町内の環状バスを自営し、さらに剣岳地域の唯一の交通機関を確保するために町がバス会社に対して年間百数十万円の赤字補てんを行った(金津町『町づくり二〇年』)。
写真106 京福電鉄金津・東古市間の廃線

写真106 京福電鉄金津・東古市間の廃線

 過疎バスについては、六九年二月に名古屋陸運局、県陸運事務所、県・関係市町村の代表、バス経営四社代表により、県過疎バス路線対策協議会が設置され、七一年六月に企業が廃線を希望した二六路線のうち一九路線を県・市町村・企業の三者が赤字部分を負担することを前提に存続することが決定した。その後、七二年に運輸省は地方バス路線運行維持対策要綱を定め、国・県・市町村が赤字分を負担する制度となり、過疎バス路線対策協議会は解散し、あらたに地域バス対策協議会として発足した。金津町に続いて、上中町、大野市、今庄町、和泉村が自主運行バスの運行を行った(福井県『地方自治三〇年の歩み』)。



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