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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第三節 空襲と敗戦
    二 敦賀・福井空襲と敗戦
      空襲の被害
 一九四五年(昭和二〇)七月一二日深夜にはじめられた敦賀空襲は、日本海側の都市としては最初のものであった。当日の敦賀地方は戻り梅雨で、空襲のはじまった深夜一一時ころには「天候不良、雲量一〇」と報告されているように、雨足が強くなっていた。泉・入船・天満・常盤・浪花・曙・大湊などの通称川東地区がまず火の海となり、つづいて児屋川と笙ノ川にはさまれた大内・橘・大島・神楽・蓬莱・旭などの川中地区に火災が広がっていった。二時間あまりにわたる爆撃で敦賀市全戸数の約七割にあたる四一一九戸(復興事務所調査では四二七三戸)が焼失し、二万人近い市民が家を失った。また、同市と東浦・東郷村で一〇九人以上(戦略爆撃調査団報告では一六一人)の死者が出、その多くは即死とされ、さらにこの倍以上の人が負傷した(『敦賀市戦災復興史』、『日本の空襲』5)。
 わずか三万人あまりの小都市へ一〇〇機近いB―29が来襲し、一夜にして焼野原となった敦賀空襲は、県民に大きな動揺をあたえ、つぎの空襲を予告する流言が飛びかうこととなった。福井市にも一九日に空襲があるというデマと一致するかたちで、同月一九日深夜、B―29一二七機の来襲をうけることになる。福井空襲は、当日が快晴で目視爆撃が可能となり爆撃の精度があがったことと、市域の住居密集率が高かったため、中小都市爆撃では富山・沼津市につぐ高い市街地焼夷率となった(奥住喜重『中小都市空襲』)。二万戸以上が焼失、九万人以上の市民が罹災し、死者数も敦賀空襲の十数倍にのぼる一五〇〇人をこえる被害をうけた。福井市の場合、避難の途中で逃げ場を失い、城址の濠や足羽川で、また避難先にされていた神明神社や西別院でも、さらには防空濠でも多くの死者を出すことになり、防空体制の不備をさらけだすことになった(『福井空襲史』)。
 敦賀・福井空襲の目的を「作戦任務報告書」はつぎのように述べている。敦賀は「朝鮮との三大定期連絡港の一つであり、また、ここを通る鉄道は本州を横断し東海道本線に接続」し、この狭い地域に「港湾、倉庫、鉄道施設が集中」しているため、「重要な目標」とした。福井市も「目標地域内に九五の著名な事業所があり、この都市の工業製品には、航空機部品、電気装置、機械モーター、種々の金属製品および繊維製品がある。この目標をたたけば、工業を破壊し鉄道輸送を混乱させ、日本の潜在的回復力を衰弱」させることができるとしている(資12上 「付録」)。しかし、実態は前述したように両市とも、大量の焼夷弾による無差別爆撃であった。この福井空襲の体験を詩人稲木信夫は、詩集『一塊の骨』のなかで「その人びとのうえに 爆弾は容赦なく落とされたではないかそれはただ無防備な人びとの皆殺しではなかったか 虐殺ではなかったか」と書いている。



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