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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第三節 空襲と敗戦
    二 敦賀・福井空襲と敗戦
      機雷封鎖と原爆模擬弾投下
 一個航空団の通常出撃態勢による敦賀・福井両市の爆撃以外に、ここでふれておかねばならないのは敦賀湾の機雷封鎖と原子爆弾投下部隊による演習としての爆撃である。
 第二〇航空軍の他の航空団は四個航空群一二〇機を通常出撃態勢とするが、一九四五年(昭和二〇)七月一二日に敦賀空襲を行った第三一三航空団は三個航空群九二機でやってきた。この航空団だけは麾下の一個航空群を機雷封鎖作戦に使うこととなっているので、焼夷弾攻撃のさいの出撃態勢が他より少ないのである。この航空団はつねに一個航空群三〇機をさいて、海軍から供給される機雷を日本の海上交通路を封鎖すべく各地に投下する作戦に従事していた。機雷封鎖作戦の主目標は下関であったが、下関の封鎖が効果をあげてきて本州北岸の諸港と朝鮮半島の間の船舶の往来が重要度を増してくると、これらの港に対しても機雷封鎖が行われた。三月二七日にはじまる機雷封鎖作戦は四六回の出撃回数を数えるが、三五回は下関にむかっている。ほぼ毎回下関にむかい、一部を他の港湾や水道にも振りむけるというかたちであった。もちろん日本側も掃海を行うので、機雷封鎖は一度に投入する航空機は少数でもいいから出撃の頻度をあげる方がよいと考えられていた。
 敦賀にも四五年五月一八日、六月一一日、二五日、七月二五日、八月五日の五度きている。五、六月の攻撃は、主力は下関にむかい敦賀市には一個飛行隊約一〇機がやってくるというものであったが、七、八月の攻撃は朝鮮半島と本州北岸の諸港湾を目標とするものとなっていた。図34は五月一八日の機雷投下について報告されたものだが、この時は第九航空群の三〇機が出撃し、うち一二機が敦賀市にきている。レーダーを用いて標定する投下法により一九日の深夜一時から二時頃、高度約六五〇〇フィートより・Mk...25二〇〇〇ポンド機雷を落下傘投下した。アメリカ軍が封鎖に使った機雷にはさまざまの感応メカニズムがあったが、この最初の投下の時にはすべて磁気機雷だった。のちの出撃になるにしたがって、掃海の困難な音響機雷や水圧検知型機雷が投下されるようになる。五月一八日の攻撃では一機が七個の機雷を積み、総計八四個が投下された。図においてはレーダー写真撮影により投下海面が確認されたものが黒丸で表わされ、撮影がうまくいかなかったものについては航法士の報告によるものを白抜き丸で記載している。レーダー写真によるものの誤差が半マイル、搭乗員の報告によるものの誤差が一マイルとされていた(Twentieth Air Force,"STARVATION",Phase Analysis of Strategic Mining Blockade of the Japanese Empire,313th Bomberdment Wing,XXI Bomber Command/Twentieth Air Force,"Tactical Mission Report,Missions No.177,201,222,292,311”)。
図34 敦賀湾における機雷投下

図34 敦賀湾における機雷投下

 五度の来襲のうち、二度は小浜市にも数機をさいている。数量的には敦賀市が圧倒的で、二〇〇〇ポンド機雷と一〇〇〇ポンド機雷をあわせておよそ四〇〇個が投下された。戦後、航路についてはすぐに掃海されたものの、多くは放置され、敦賀湾、小浜湾では長らく海上自衛隊による掃海作業が続けられた(『福井新聞』61・5・9)。
 さて、原爆投下が第二〇航空軍の主力とは別に編成され、極秘裏に訓練しティニアン島に配備した第五〇九混成航空群により行われたことはよく知られている。この航空群は四五年七月二〇日より、弾道が原爆とほぼ同じになるような筺体にTNT火薬を詰めた大型爆弾を搭載した航空機を含む二機から四機の部隊を編成し、さまざまな目標に対する目視による昼間高高度精密爆撃を行っていた。広島・長崎市への原爆投下も含めて一八回の出撃回数を数える。敦賀市には八月八日飛来し「化学工場」を標的として三万フィートの高空から投下している。結果は「素晴らしい(excellent)」の記載がある。実際には東洋紡績敦賀工場の巻糸室に命中し、工員や学徒動員で働いていた生徒あわせて三三人が死亡した(509th Composit Group,Statistical Table and Map of Special Bombing Missions,敦賀空襲を伝える会『敦賀空襲・戦災史』)。



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