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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第三節 空襲と敗戦
    二 敦賀・福井空襲と敗戦
      福井空襲
     
 福井市は一九四五年(昭和二〇)七月一九日の午後一一時二四分より翌二〇日の午前〇時四五分の八一分間の空襲をうけた。福井空襲を行ったのは第五八航空団所属の四個航空群、一二七機であった。先導機一二機のうち七機がレーダー爆撃を行っているが、この日は快晴であったので、先導機の投弾により発生した火災が視認され、残りの大部分は目視爆撃を行っている。天候がよかったことにより爆撃の精度があがり、被害は大きかった。また、四個航空群の爆撃時間が八一分という集中度をみてもわかるように、福井市はB―29部隊としてもっとも練度の高い航空団による爆撃をうけたことも不運だった。爆撃高度は一万二四〇〇〜一万四〇〇〇フィートで、AN―M47A2一〇〇ポンド焼夷弾五六五一発、一九四・九トン、同一〇〇ポンド白燐弾三〇発、一・五トン、E―46五〇〇ポンド集束焼夷弾三七八五発、七五七トン、を投下したほか、M―46写真偵察用照明弾五発を投下している。
写真41 福井空襲

写真41 福井空襲

 日本本土と接するまでの航路は敦賀爆撃の部隊と同じであった。三重県の猪ノ鼻から福井空襲の進入点とされた琵琶湖北端の葛篭尾崎にむかい、そこで爆撃航法に入った。侵攻方向は三五六度から二一度と報告されており、目視爆撃が可能であっただけに幅があるが、おおむねこれも南から北へと福井上空を通過したといえる。投弾後は右旋回して離脱し、御前崎にむかいここから洋上へ出た。アメリカ軍の評価によると市街地の損壊率は八四・八%とされている。平均弾着点は福井城址の北西角が指示されており、半数必中界四〇〇〇フィートに市域がほぼ収まるとしていた。被害の甚大さからみて、福井空襲に関しては計画どおりの爆撃がなされたといえる(Twentieth Air Force,"TacticalMission Report,Mission No.277")。

      




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