目次へ 前ページへ 次ページへ


 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    三 小浜線の敷設
      敦鶴線、官設の運動
 明治三十三年(一九〇〇)三月に「私設鉄道法」が制定された。私設会社の設立や経営への規制はいっそうきびしくなり、おりからの不況もあり、三十五年から三十九年までに私設鉄道会社の設立は皆無であった。小浜鉄道では、経済界の回復を待って再度願書を提出することになっていたが、再願されることはなく、若狭地方への鉄道敷設は官設を基軸として展開された。
 三十五年の「鉄道敷設法」の改正で、舞鶴・敦賀間に新たに加えられた舞鶴(西舞鶴)・余部(新舞鶴と改称、現東舞鶴)間は速成工事で開通した。日露戦争後の三十八年、鉄道同志会の会長に杉田定一衆議院議長が推され、また嶺南選出の荻野芳蔵代議士も同会役員として活動することとなり、新舞鶴・敦賀間の鉄道(敦鶴鉄道)速成の動きが起こってきた(『若州』明39・2・8)。
 地元の若狭三郡や敦賀郡でも、敦鶴鉄道速成の請願書の署名や敦鶴鉄道期成同盟会の組織化などが進められた(『若州』明39・2・19)。三月一日、鉄道同志会では、北陸(敦賀・舞鶴間)、山陰、四国、九州の四大幹線速成に関する建議案と、政府に鉄道線路調査に関する予算の提出を求める建議案を決定し、つづいて三日には、衆議院請願委員会が当地有志の敦鶴鉄道敷設請願を採択・可決したが、審議は紛糾し、その結果、財政の許す限りにおいて明年度の予算に計上することになった。三月五日、鉄道同志会の四大幹線速成建議案が衆議院に提出されたが、議会では「鉄道国有法」が重要議題であったこともあり、財政難を理由とする玉虫色の政府答弁に、議会は再び紛糾した。しかし、政府の答弁は進展せず、結局建議案のみの可決となった(『若州』明39・3・4、9、17、21)。三月末日に制定された「鉄道国有法」による買収では、敦鶴線の周辺は、京都・園部間の京都鉄道、尼崎・福知山間の阪鶴鉄道が対象であった。
 四十三年四月に制定された「軽便鉄道法」は、既設の幹線と周辺の町を結ぶ小規模な鉄道敷設を特徴とする「第三次鉄道ブーム」を起こした。若狭地方でも、表227(第五章第四節二)のように多くの軽便鉄道計画が起こったが、これらの計画には、長距離で資本金の規模も大きく幹線鉄道的な要素がみられた。若狭地方有志が発起した、さきの小浜鉄道と類似の敦賀軽便電気鉄道では、官設は「政府財政の都合上五十年後にあらされば到底起工能は」ず、当初は民設とし「竣工后は政府において是れを買収」するという了解があったとされ、政府も「軽便にては旅客貨物を輸送し切れずとせば自然官設を敷設する」という方針であった。敦賀・小浜・舞鶴間の軽便鉄道敷設の計画や運動は、「鉄道敷設法」の一期予定線への編入にもかかわらず、容易に進行しない官設敦鶴鉄道の速成運動という側面をもっていた(『福井北日本新聞』明44・3・31、5・6)。
 四十三年三月、衆議院では名村忠治ほか九人が、敦賀より小浜を経て新舞鶴にいたる鉄道速成に関する建議案を提出、可決された。予定線としての測量は、すでに四十二年四月から八月に実施されていた。当時、敦賀・新舞鶴間の路線には二案があった。一案は、北陸線敦賀駅から三方郡八村・小浜町・高浜村を経て吉坂峠を貫き、新舞鶴駅にいたる路線で、二案は、敦賀駅から愛発村を過ぎ、滝谷峠に大隧道を穿ち滋賀県百瀬・今津・角川などの町村を経て再び福井県に入り、遠敷郡三宅村・小浜町を過ぎ新舞鶴駅にいたる路線で、結果は前者に決定した。この間、四十三年には敦賀停車場が、気比神宮前から南東の現在地に移転している(『小浜線建設工事概要』)。
 四十五年三月の「鉄道敷設法」の改正で、敦賀・新舞鶴間に官設鉄道の敷設が決定され、二〇年におよぶ運動がようやく実った。



目次へ 前ページへ 次ページへ