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 第五章 大正期の産業・経済
   第二節 絹織物業の展開
    二 大戦景気から「慢性不況」へ
      大戦景気
 大正三年(一九一四)の第一次世界大戦の勃発は、当初ロンドン市場の機能麻痺や船舶不足により、年来の不況をいっそう深刻にさせた。しかし、四年半ば以降、ヨーロッパ商品の輸入途絶を埋めるかたちでアジア向けの輸出が顕著に伸び、続いてヨーロッパ諸国の軍需が日本商品を求め、さらにアメリカの好況が戦後にかけて続き、日本の生糸・織物などの輸出産業は、九年初めまで未曾有の躍進をとげた。
 絹織物の輸出額は、三年の約三四〇〇万円が八年には約一億六二〇〇万円と五倍近い伸びをみせていた(『本邦主要経済統計』)。このようすを日本銀行『本邦財界動揺史』(『日本金融史資料』明治大正編二二)は、福井・石川両県の機業地について、つぎのように述べていた。
  輸出絹織物ハ、欧州戦乱中海外注文旺盛ニテ従来ノ生産状態ニテハ其ノ需要ニ応スルコト能ハス、金沢市
  場ノ如キハ常ニ品不足ヲ告ケ、従テ相場漸騰シ機業家ノ採算ハ有利トナリタレハ工場ノ新設拡張盛ニ行ハレ
  、大正七年十二月迄ニ於ケル力織機数ハ石川・福井両県合計三万一千余台ニテ、戦前ニ比シ倍加シ機業界
  ハ空前ノ殷盛ヲ呈シ居タリ
 福井県の絹織物生産額は、大戦勃発時の三年の約二五〇〇万円が、六年には約四〇〇〇万円、七年には九七〇〇万円となり、さらに八年には一億五七〇〇万円にまで急増した。
 図61により輸出向絹織物の内訳をみていくと、この時期注目すべき変化が起こっていることがわかる。福井県の輸出向絹織物は、大戦勃発時までは、羽二重が圧倒的比重を占めていた。ところが六年ころから、羽二重の比重が低下しはじめ、絹紬や縮緬の輸出が伸びはじめる。また、絹織物以外でもクレープを中心とした綿織物生産額は八年には約一二〇〇万円にまで達していた(資17 第342表)。
図61 井県の輸出向絹織物生産額(大正1〜昭和1年)

図61 井県の輸出向絹織物生産額(大正1〜昭和1年)

 五年五月二十二日の『大阪朝日新聞』は、坂井郡春江地方の「変り織物」への転換を「重目物の主産地たる春江村地方は、昨今殆ど重目羽二重の製織をなすものなく、一部を除く外、軽目物、柞蚕織物、仏蘭西縮緬、繻子等変り織物に転じ」と報じている。表214によれば、翌六年には「変り織物」への転換は、坂井郡をはじめとして福井市・吉田郡で顕著であり、機台数においても輸出向羽二重の五割五分を占めるまでになっていた。このような、羽二重から「変り織物」への急速な転換は、利益の差がかなり大きかったからである。
 この利益の差を七年の新聞は、平羽二重一本(五〇ヤール)の利益が約五、六円で、織機一台で月平均九本を製織すると約六〇円の利益を上げることができ、一方フランス縮緬の場合は、織機一台で月七本製織の利益が、約一一〇円であるとしている。後者を織る織機二〇〇台の工場では、一か月約二万円の純益があり、この「素晴らしい機業家の景気」と題した記事を「かかる好景気の続く事は未だ曾て例のない事である」と締めくくっていた(『大阪朝日新聞』大7・4・9、10)。
表214 郡市別輸出向絹職物織機数(大正6年)

表214 郡市別輸出向絹職物織機数(大正6年)
 春江村では、六年末で機業戸数約五〇戸が、織機約二五〇〇台でフランス縮緬その他の「変り織物」を生産していたとされている(『大阪朝日新聞』大7・1・20)。単純に計算すれば、春江村一村の絹織物生産がもたらす利益は一年間で約三〇〇万円となり、それは大正六年の県歳出約二〇〇万円の一・五倍にも達していた。このような、空前の好景気は、電力不足や職工争奪をまねきながらも九年初めまで続いたのである。
 この好景気が輸送部門にあたえた影響として、北陸線はもちろんのこと、越前電気鉄道・南越鉄道・丸岡鉄道の既設私設鉄道は、三年から八年にかけて三〜五倍の増収となり、嶺北中央部の私設鉄道網がいっそう充実される契機となった。また、逼迫した電力需要は、四年から八年にかけて県下に一一の発電所を完成させ、その出力は、四年以前の九発電所分の二・七倍であった(資17 第511表、同 「解説」)。このほか、七年二月には市内の電話番号が一〇〇〇番をこえたと新聞が報じており、「空前絶後」の好景気は、県下の産業および社会にも劇的な変容をもたらしていた(『大阪朝日新聞』大7・2・11)。



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