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 第五章 大正期の産業・経済
   第二節 絹織物業の展開
    一 工場制工業への転換
      春江地方の躍進
 明治二十五年(一八九二)の爆発的羽二重景気を画期として、福井市で起こった羽二重業は、郡部の町部を核としてその周辺の農村部へ展開しはじめた(第三章第二節二)。表211によれば、二十年代には福井市とその周辺の吉田・足羽郡および今立郡を中心に絹織物業が展開していったが、三十年代に入ると坂井郡が徐々に台頭しはじめ、さらに、力織機化が本格化しはじめた四十年代から大正期にかけて一〇パーセント台から二〇パーセント台へとその比率を急速に高めていく。

表211 絹織物の郡市別生産比率(明治22、25、32、37〜大正14年)

表211 絹織物の郡市別生産比率(明治22、25、32、37〜大正14年)
 明治三十九年の工場分布図である図59からも明らかなように、坂井郡のなかでも、純農村部であった春江地方(春江村および隣接の高椋・磯部・東十郷・大石村)は、工場数において郡全体の一〇一工場のうち六七工場と六六パーセントを占めていた。また、職工数でもこの五村は、二七五九人のうち一七五四人と六四パーセントを占め、なかでも春江村は工場数四七・職工数一一六〇人とそれぞれ郡の四七パーセント・四二パーセントを占め、圧倒的地位を確立していた。一方、二十年代に絹織物業が起こっていた旧城下町である丸岡町や港町三国町は、この時期、停滞または後退していた(『県統計書』)。
図59 坂井・吉田郡の町村別工場数(明治39年)

図59 坂井・吉田郡の町村別工場数(明治39年)

 春江地方は、二十年代半ば以降、在郷町の性格が強かった隣接の吉田郡森田村において絹織物業が急速に展開したのに刺激をうけ、同業の導入が始まった。それは、今立郡粟田部村の商人資本による機業勃興に続いて、農村部である南中山村などの周辺諸村に絹織物業が展開していったのと類似していた。ただ、粟田部村の場合と異なるのは、春江地方、なかでも春江村では、三十年代末から急速に工場制工業が展開し、輸出向羽二重を中心とした生産額において森田村を大きく超えるまでに発展したことであった。県下においても例外的といっていいほど、五町歩前後の中小地主の機業投資がきわめて活発な地域であったといえよう(神立春樹『明治期農村織物業の展開』)。
 つぎに、純農村部である春江地方のなかでも春江村に限定して、絹織物業がどのように展開したかをみてみよう。ただ、統計以外にはほとんど資料がないため、同村における絹織物業の発展過程を具体的に考察するには多くの制約があるが、まず、『県統計書』の「工場明細」により、その勃興過程をみていく。表212にみられるように、春江村の絹織物工場が「工場明細」にはじめて登場するのは、北陸線の福井・小松間が開通した翌年の明治三十一年である。この年の九工場のうち、六工場が創業年を二十五年とし、残り三工場が二十六、二十七、二十八年としている。同様に三十九年の四七工場では、二十五年を創業とするものが五工場、二十六〜三十一年の間が一三工場、三十二年が一一工場、三十三年が六工場、三十四〜三十九年の間が一一工場である。このことは、春江村においても機業勃興の画期が、好景気であった二十五年と三十二年にあったことを示している。
 三十四年の『県勧業年報』には、春江村の絹織物業に関する統計資料が記載されている。それによれば、春江村の絹織物業は、すべて羽二重を生産しており、その産額は約七〇万円で坂井郡の五一パーセントを占めていた。製造場数は七一戸で坂井郡二〇九戸の三四パーセント、職工数も八〇三人で二七二二人の三〇パーセントであり、一製造場および一職工あたりの生産性は、三十四年の時点でも郡内の他町村と比べ高かった。また、表212にみられるように、春江村の三十四年の工場数は一〇、職工数二八八人であり、一工場平均職工数二八・八人は、県平均二四・九人を上回っている。さらに全製造場で比較すると、春江村は一一・三人であり、県平均六・〇人(織物業)を大きく上回りほぼ二倍の規模であった。

表212 春江村の工場(明治31〜大正7年)

表212 春江村の工場(明治31〜大正7年)
 このようにみていくと、日露戦争時までは工場数がほぼ一桁台であったのが、三十八年にいっきょに四六工場に急増する理由もほぼ理解できる。それは、職工数一〇人以上を使用する製造場を「工場」とする『県統計書』の定義にかかわっていた。三十年代半ばには、すでに春江村の過半以上の製造場は、職工数が一〇人に近づいていた。それが、日露戦争時の三十七年の好景気を契機に、多くの製造場において一〇人を超えたのである。また、三十四年の一〇工場が、三十八年には四倍強の四六工場に増加しているものの、一工場あたりの平均職工数二八・八人から一七・四人にまで減少していることも、四六製造場の多くが、職工一〇人を超えて「工場」としてカウントされたことを推定させる。
 この三十七年の好景気を画期とする製造の規模拡大と、さらに四十二年以降の力織機の導入により、同村絹織物業は工場制工業に転換されていく。四十二年には三九工場のうち六工場に電動機を動力とする力織機が導入された。この状況を四十三年十月九日の『福井新聞』は、見よ坂井郡春江村江留上なる一小部落を中心として、共厚舎なる団体を組織し、羽二重工業に全力を尽くして、旭日昇天の勢を以て肉薄しつゝあるものあるを……最近の調査によれば、力織機は三百数十台に及び単に力織機のみによる産額にて百十万円を算せりと報じていた。明治二十六年に創設された共厚舎が、原料購入や製品販売だけでなく、力織機化の過程にも大きな役割を果たしていた(『福井県自治民政資料』明治四五年)。
写真161 松井機業場

写真161 松井機業場

 さらに大正元年(一九一二)には二二工場のうち一九工場に原動機が、一六工場に電動機が導入され、三年後の四年には、三二工場のすべてに原動機(うち三一工場に電動機)が導入されるといった、県下でも例をみないような速度で工場の電動機化が進んだ。一方、工場数は明治三十九年の四七工場をピークに減少しはじめ、大正元年には半分以下の二二工場になっていた。ただ、一工場あたりの平均職工数は、明治四十二年の二〇・一人が、大正元年には二八・九人、翌二年には三六・三人にまで増加していた。
 すなわち春江村においても、日露戦後以降大正初期にかけての輸出向羽二重業の停滞を、生産コストの低減を目的とした力織機導入による工場制工業への転換によって克服しようとしていたのである。この転換過程は村全体でみた場合、県下においてもっともスムーズになされたと推定できるが、それはまた、多くの零細機業の没落によって成しとげられた。同村の全機業戸数は、明治三十四年に七一戸あったのが大正四年には四一戸にまで減少していた(「春江村是」大正五年)。ちなみに、同年の工場数は三二であり、農村織物業として出発した春江村の絹織物業は、この時期、工場制工業への転換がほぼ完成したのである。



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