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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    三 その他の地域産業
      在来産業の再編

表136 福井県の主要工産物(明治42年)

表136 福井県の主要工産物(明治42年)
 福井県における近代的産業としての工鉱業は、すでに述べたように絹織物業・器械製糸業・産銅業を中心に発展した。ほかの工業の大部分は在来産業であるが、欧米からの貿易にともなう外圧や産業革命にともなう機械化の影響をうけながら、伝統的な技術に磨きをかけたり、新しい商品の開拓などにつとめて近代においても、生産者や販売業者が生活の基礎にしてきた。産業革命の終期に近い明治末期における工産物を、産額の多い順に列挙すると、表136のようになる。抜群の絹織物を除けば、酒、和紙、漆器、石灰、それに伝統的な製法を守った各種織物などの産額が多い。なお、缶詰は在来産業というよりむしろ近代的工業に属する。ここで、明治期から大正初期にかけての在来産業のおおまかな動向をみておこう。木綿織物は吉田・坂井・大野・丹生・今立の各郡で生産されたが、産額がもっとも多いのは丹生郡の石田縞木綿である。明治二十六年(一八九三)の朝日村における石田縞を中心とした木綿織物の製造戸数は三一〇戸、生産額は四万四〇〇〇余円にのぼっているが、三十年には七万六〇〇〇余円にふえ、産地を形成している(『県勧業年報』)。綿と染料が自給でき、農閑期に家内工業ないし賃織業として手織機で織られてきた。紡績業の発達・織物の機械化、さらに輸入綿花による国内綿の駆逐が進むなかで、綿織物業は全国的規模で再編され、特産地の形成が進んだ。そうしたなかで石田縞は、技術の革新に進むのではなく、手織機による伝統的製法を守る方向を打ち出してきたのである。しかし、明治末期になると、粗製濫造と染色の不良が目立つようになり、有力業者が力織機の導入に踏みきるなど大きく変容している(『福井新聞』明43・9・11)。つぎに明治初期から鎌・包丁・鋏・鉈などの生産高で全国の上位を占めてきた武生鉄鏗業組合は、産業革命期の二十六年段階でなお徒弟制度の存続と西洋鉄鋼材の使用禁止を打ち出し、伝統の打刃物製法を、守ろうとしている。しかし、これも明治末期になると、播州・信州・越後の製品に侵食され、四十二年一月に越前打刃物同業組合を設立して対抗策に腐心するようになる。大正二年(一九一三)七月十九日の『福井新聞』は、組合以外から鎌・鋏・剃刀・のみ・かんな・鋸・ナイフ・小刀などの半製品を大量に移入し完成品にして販売していることを伝えている。一方、酒造業は、明治十八年(一八八五)の製造戸数四五七戸が四十四年には二二七戸に減少し、醸造高も三十二年の約七万石をピークに漸減している。灘(神戸市)に代表される特産地化に押されて、小規模経営の多くが姿を消し、比較的大きな企業的経営だけが生き残ったものとみられる。このほか、畳表・茣座・花莚、瓦、食物油などの製造業は大正期に産額をふやしている(『帝国統計年鑑』)。こうした動きのなかで、今立郡河和田村(鯖江市)をはじめ、遠敷郡、福井市などの漆器製造業者は、蒔絵、若狭塗などの工芸技術の向上や機械化した木地製作工場(河和田漆器)の新設などで近代工業に近い発展をとげた。また、大正期以降全国屈指の産地となる眼鏡枠製造業は明治三十八年六月に足羽郡麻生津村(福井市)の増永五左衛門が大阪から技術者を迎えて技術の基礎を築いた(『福井県眼鏡史』)。ここで伝統的な和紙漉業から出発して機械化を進め、新たな商品も開拓して近代的な製紙業に発展した今立郡の製紙産地に焦点をあわせてみよう。
写真112 武生町の打刃物

写真112 武生町の打刃物




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