勝山製糸会社は明治七年(一八七四)六月に資本金二万五〇〇〇円で勝山下元禄町に創業、九年五月に旧城跡三ノ丸に移り、職工六〇人で器械製糸経営を本格的に始めた。中心となったのは旧来の特権的商人である斎藤遊糸(支配人)・小林平三郎らである。十五年には一二四釜を設け、工女中心の職工を一五〇余人にふやし、日産約二貫八〇〇匁の生糸を生産して一部はアメリカへ輸出している(『県勧業年報』)。二十六年十二月に合資会社に組織を変更し、二十九年五月には発足時から株主であった社員の松井四右衛門が営業譲渡をうけ、三ノ丸製糸場として大正期まで続いた。同社の経営内容をみると、赤字経営の体質が目立っている。十九年六月から二十五年五月までに累積欠損金九四〇〇余円、二十六年度には営業損金五六〇〇余円をそれぞれ出している。二十六年度の経理をみると、繭買入費は三万二〇〇〇余円、これに対して借入金は銀行から一万一一〇〇余円、銀行以外から三五〇〇余円で、合わせても一万四六〇〇余円にしかならない(資10 二―一二五〜一三〇)。長野県の器械製糸場のように繭購入資金について生糸売込商と地方銀行から盛んな前貸金融をうけるような支援はみられない。第九十二国立銀行からの購繭費の前貸金融は三五パーセントにすぎず、先進県のように現金払いなどで繭を安値に仕入れることが困難であったことが容易に推察できる。二十六年に合資会社として新発足するようになる原因もこの多額の営業損金にあったと推定できる。横浜における生糸価格の激変が製糸場の浮沈を左右したといわれ、勝山製糸会社も恐慌が起きた二十三年には六三〇〇余円の欠損を計上している(資10 二―一二五)。同社の製糸工女は「四季共に未明に業に就」き、後身の三ノ丸製糸場でも一日一一時間二〇分の長時間労働に耐えたが、経営者も「繭高糸安」に多く直面し、借金経営のやりくりに苦労したことがうかがえる(『県勧業年報』)。 |