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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    二 輸出向羽二重業の勃興
      福井羽二重の生産開始
 明治十年代後半には、桐生・足利から羽二重が米国へ輸出されはじめたが、その品質と廉価が評価され、羽二重の需要が高まっていた。そうしたなかで、生糸や傘地・ハンカチーフの販売を通じて横浜の外国商会と取引のあった福井や粟田部の仲買商から羽二重輸出好況の情報がもたらされるとともに、羽二重の注文が来るようになった。 写真106 高力直寛

写真106 高力直寛

 明治十九年(一八八六)冬には、福井で羽二重製織の新技術導入の機運が起こり、桐生の森山芳平工場の客員で、二〇歳代半ばの織物技術研究家であった高力直寛(慶応元年生、のち東京高等工業学校教授)を招聘することが計画された。県も機業家を県庁に集め、羽二重製織技術導入の必要性を説くなどこれに側面的に協力し、翌二十年三月に「織工会社」で高力による講習会が行われた。機業家一戸ごとに二人の女工が参加した講習会は、三週間という短期間で終了し羽二重製織技術が伝習されたといわれる。この技術修得が三週間という比較的短期間で可能であった理由としては、羽二重製織技術が比較的簡単であったこととともに、当時福井にはバッタン機が約二〇〇台導入されハンカチーフや傘地が製織されており、その技術的蓄積があったことに求められよう(前掲『三十五年史』)。
 このようにしてもたらされた羽二重製織技術は、「織工会社」が核となりまず福井市街に普及し、ほぼ時をおかずして広く越前地方の郡部にも広がって行くことになる。翌二十一年夏には足羽吉田郡役所が、「織工会社」内に伝習所(教師には岩村繁介を月俸一五円で任命)を設け、伝習生を広く郡内に募集した。そして、岩村は郡役所の招聘により、郡部の村むらへも出向いて、講演会や技術指導を行った。また、この技術の普及は、郡役所だけでなく民間でも広く行われた。同年秋には、士族の本多健が江戸上町に機業会社を設立し、和歌山県より製織・染色の二人の熟練者を招き羽二重生産を開始するとともに、製織技術の伝習をも行った(『福井新聞』明21・8・28、9・28、10・23)。
 この技術の普及は、二十二年にはいっそう活発となり、福井市での熱狂的ともいえる状況を同年十月二十六日の『官報』は、つぎのように伝えている。五月に市内錦中町の桐山新助が私立伝習所をつくり、自ら教師を兼ねて生徒を指導している。以来伝習所は続々設置され、目下市内には伝習所が六か所あり、すでに卒業した者一七〇人、修業中の者が一七三人であるとしている。このように羽二重製織技術の普及にはめざましいものがあり、翌二十三年五月には今立郡粟田部村の福田幸太郎が前述の福井市の機業会社の伝習生となり、同年秋には、地元へ帰り羽二重生産を開始していた(資10 二―八八)。
 このような福井市における羽二重業の普及は、「織工会社」を中心とする士族とともに商人の投資によってもたらされた。代表的事例としては、小川喜三郎(十九年創業)や松井文太郎・松島清八(ともに二十二年創業)のような主要な生糸・羽二重商が、職工三〇人以上を雇って規模の大きな機業場を経営していた(『県勧業年報』)。
 一方、羽二重製織とともにその製品化に不可欠な精練の技術も精力的に導入された。絹織物組合の組長であった葛巻包喬らは、染色業者であった渡辺清七を当時の精練法の先進地であった桐生に派遣した。二十一年秋、帰福した渡辺は精練業を開始し、また翌二十二年春には京都から木村(黒川)栄次郎がきて上田伊八と「京越組」を組織して精練業を始めた。二十三年には、精練業者六人が「練進会」を組織して県下の同業者を統一し、練賃を一定にして職工の争奪競争をさけ、精練方法の改良、技術の向上につとめ、また、郡部においても精練業が起こった(前掲『三十五年史』)。



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