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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    三 農事改良
      土地改良の推進
 農耕地としての利用増進をはかる土地整備事業として、明治三十二年(一八九九)の耕地整理法制定に先立ち、二十九年三月、足羽郡下宇坂村小和清水(美山町)で、約四町の耕地区画の土地改良を実施し、同年六月に竣工した。さらに、三十年四月には「土地区画改良ニ関スル件」(法律第三九号)が公布され、翌三十一年二月、大飯郡高浜村で、約九町歩の事業に着工し、三十二年五月に竣工した。同年三月に耕地整理法が公布され、翌三十三年一月から施行されたが、同年六月、足羽郡下文殊村大土呂(福井市)で、石川県から北田弥三右衛門を招いて、耕地六九町歩余の整理に着工した。そして、約三か年を費して竣工したのである(『県史』三 県治時代)。
 一方、県農会では、三十四年四月、北田を技師に採用し、耕地整理部を設け、技師を増員して、測量・製図・設計の業務はもちろん、工事を監督させるなど、事業の進展につとめた。さらに、同会では四十年、県の委託に応じて、その一層の促進をはかった。こうして、三十三年より四十一年までに、整理箇所数二四、整理地区総面積は一〇三一・八町に及んだのである(『福井県農会史』)。
 耕地整理法は、土地所有者三分の二以上の同意があれば、それ以外のものに対しても、参加を強制することができ、耕地整理完了後の地価据置、整理に関する登録税の免除など、地主的利益を優先させ、地主の積極的参加を求めるものであった。この点、小作料の安定的収得をはかる地主層の期待にこたえるとともに、資本主義の進展にともなう低米価・低賃金構造確立の前提となる生産力上昇の必要性と、食糧確保の国家的・軍事的要請によるものとみてよい。
 ところで、こうした耕地整理による「縄のび」是正にともなう小作料の実質上の増額は、小作農の負担を増加させ、大正初年の山形県飽海郡一〇か村の大々的な小作争議にみるとおり、府県のなかには地主・小作間の相克をかもし出したりする。しかし福井県下では、このような表立った動きは認められない。
 耕地整理法は、四十二年の抜本的改正により、潅排水設備の改良を中心とする本来の土地改良事業に重点がおかれ、事業の主体も、権利義務をもつ耕地整理組合とし、従前に比べ、一層の強制力が付加された。したがって、事業も県農会から県に移管され、県主導の仕法に改められたのである。
 ちなみに、福井県下の明治三十四年より大正十年までの耕地整理事業は、表112のとおり、整理地区数一七六、整理前面積六二六三町余、整理後面積六九六三町余、増歩面積六九九町余、歩延率一一・二パーセントで、かなりの進ちょく度をみてとることができる。

表112 耕地整理事業状況(明治34〜大正10年)

表112 耕地整理事業状況(明治34〜大正10年)
 なお、福井平野の中心を占める坂井郡の場合、この期間中に、水田総面積の約三割にあたる三一〇〇町歩が実施されている。これを村別にみると、表113のとおり概して用水下流部に実施割合が高く、上流部では低くなっている。歩延の最高一九・四パーセント(大石村)から最低五・六パーセント(鶉村)、平均一一・六パーセントで、前述の県全体の平均に比べ、若干高い増歩が認められる。

表113 坂井郡の耕地整理状況(明治34〜大正10年)

表113 坂井郡の耕地整理状況(明治34〜大正10年)
 このような耕地整理事業が、稲作の品種改良・農業技術の進展とともに、県下の米収穫高を著しく増大させ、明治三十二、三十三両年平均高七〇万石余から、四十一・四十二年の平均高八九万石余へと約一・三倍に、さらに、大正四、五年の平均高一〇一万石余と約一・四倍に増産する大きな要因となるわけである(『県統計書』)。



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