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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
     二 近代教育のはじまり
      中学校の開設

学制と同時に出された布達(文部省第一三号)では、従来府県において設置していた学校をいったんすべて廃止することが命じられた。これによって旧藩校のほとんどが廃校を余儀なくされ、明治六年(一八七三)の全国の中学校数は、二〇校(公立三、私立一七)のみであった。福井藩の藩校であった明新館を引き継いだ福井私立中学校は、このうちの一校として、六年八月には県内の四中学区の連区中学校とされた。外国人教師の雇用も継続され、グリフィスの後任にはワイコフとマゼットが招聘され、指導にあたった。
 七年四月の福井師範学校の独立とともに、福井中学は福井明新中学と改称されたが、敦賀に県庁を置く敦賀県は小学校教育を第一として、財政的にも大きな負担である中学校教育には消極的であった。そのような姿勢に対して、福井中学大助教、庶務課学務掛であった富田厚積はその職を賭して反対した。石川県下においても、桐山純孝権令は中学校教育に消極的で、九年の秋に福井明新中学はついに廃校になった。これに対して、旧福井藩主の松平茂昭の寄付が機縁となって、区長や学区取締・戸長・総代らが中学校の再興に尽力し、十二年一月石川県公立明新中学が開校した。校長には、敦賀県時代に中学校廃止に反対した富田厚積が教師兼務で就任した。十四年二月の福井県の設置とともに、第一回通常県会で九月に福井と小浜に中学校を設立することが決議され、翌十五年一月に福井県立福井中学校が発足した(『越前人物志』)。

写真71 富田厚積

写真71 富田厚積

 一方、小浜藩の順造館は中学校に発展しなかった。滋賀県は十三年四月に小浜・彦根の師範学校を廃止して、そのあとへ県立小浜中学校・彦根中学校を設置することとした。しかし県立小浜中学校は、はやくも九月に彦根中学校とともに廃止され、十二月からは大飯・遠敷・三方三郡の公立中学校として運営された。十四年二月の福井県設置により、翌十五年一月には福井県立小浜中学校として出発することになった(「滋賀県史料」、『文部省年報』)。



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