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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    二 福井藩公議政体路線
      維新政権からの退潮
 明治二年(一八六九)六月十七日の版籍奉還にともなう官制改革で、従来の唯一の立法機関であった公議所は、集議院に改称・改組された。
 この際、中央政局で注目されるのは、太政官や各省の要人が、ほとんど公卿と薩・長・土・肥の出身者で占められたことである。すでに、福井藩出身の参与青山貞・酒井十之丞・毛受洪・中根雪江らも、就任後わずか数か月でそれぞれ辞職する羽目となった。福井藩論の主導的な役割を果たした参与横井小楠も、二年一月五日に保守反動派のテロにより悲劇的な最期をとげ、また維新財政を一手に担った由利公正も、大隈重信ら外国事務掛官僚の反発などにより、同年二月十七日に退場を余儀なくされる。
写真008 横井小楠

写真8 横井小楠

 また、維新政権発足の際議定となった春嶽は、慶応四年(一八六八)一月十七日、内国事務総督に任じられ、翌明治二年七月八日、民部卿の重職を担った。ところがまもなく八月十一日、会計官の後身である大蔵省と民部省との合併が強行され、したがって彼は、民部卿と大蔵卿を兼任することになる。
 しかし、この両者の合併は、民部官創設以来の民政を重視していた春嶽として、はなはだ不本意であったわけである。すでに彼は、六月二十三日「於天前御下問被為在候職制之内、已に民部官被廃候哉にも有之、右に付而は相当官は、私始一同如何相成候哉甚以心配仕候」(『岩倉具視関係文書』)と述べ、政府の民部省廃止の方針に対して、きわめて憂慮の念を表明したほどである。しかもこの際、「由利財政」を退けた大蔵大輔の大隈重信が民部大輔を兼務したことは、春嶽の政治的孤立をはかるための薩長要路者の意図的な画策によるともみられる。
 こうして春嶽は、同年八月二十四日、大学別当兼侍読に転じ、翌三年七月十三日、本官および兼官を免ぜられた。これを最後に、福井藩出身の要人は、中央政局からほとんど一掃された格好となる。いうまでもなく、福井勢の退潮は、公議政体路線が掲げる「公議輿論」尊重の破綻を明瞭に示すものであり、一方旧討幕派路線による藩閥専制化の優位をいよいよ決定的なものにする。



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