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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    一 民衆収奪の強化
      年貢収奪の様相
 民衆の負担の最も基本的なものである年貢収奪の様相を、幕末期についてまずみておこう。表173は、天保飢饉の終わった天保九年(一八三八)から慶応三年(一八六七)までの鯖江藩(五万石)、幕府領大野郡東遅羽口村(村高二九八石二升六合)、大野藩領大野郡野波村(村高四三八石五斗一升七合)、小浜藩領遠敷郡上吉田村(村高三二二石三斗三升八合)の年貢高の動向を示したものである。鯖江藩については文久二年(一八六二)に一万石減封されているが、幕府に上知された分がなお鯖江藩に預けられていたため、その年貢高を知ることができるので、ここでは上知高の年貢を鯖江藩の年貢高に加算してある。

表173 鯖江藩領・幕府領・小浜藩領の年貢高の変遷

表173 鯖江藩領・幕府領・小浜藩領の年貢高の変遷


表174 万延元年(1860)5月11日・6月10日の洪水による被害

表174 万延元年(1860)5月11日・6月10日の洪水による被害


表175 慶応2年(1866)の洪水による被害

表175 慶応2年(1866)の洪水による被害

 鯖江藩の年貢率は、天保飢饉後に回復したあと、幕末にいたるまで多少の変動をみせるもほぼ三五パーセントから三七パーセントの間を動き、幕末に向かってごくわずかであるが減少の傾向をみせる。なお万延元年(一八六〇)と慶応二年の大きな落込みは、この年の洪水が原因である。表174と表175は、万延元年・慶応二年の福井藩領における洪水の被害を示したものであり、ことに慶応二年の洪水は「国初以来之大水」といわれたほどの大災害であった(「家譜」)。
 東遅羽口村の年貢高は、田方と畑方に区別されているが、ここでも天保飢饉後に回復して以後は大きな変化はなく、ごく幕末に若干の増徴がみられる。大野藩領野波村と小浜藩領上吉田村では、万延元年・慶応二年など洪水のあった年を除いて、年貢高はほとんどあるいはまったく変化をみせていない。
 このように、幕末期、各領主とも年貢増徴というかたちでの収奪強化はなしえず、むしろ領内の難渋者の不満を抑え込むため、「お救い」を迫られた。表176は、安政六年(一八五九)の福井藩における難渋者の数を表したものであるが、藩は、この時「極々難渋者」には銀三〇匁、「極難渋者」には銀二〇匁、「難渋者」には銀一〇匁を支給した(「家譜」)。こうした難渋者対策は、福井藩ではこの年限りのことではなく、また他の藩でも同様の施策がとられた。

表176 安政6年(1859)の福井藩の難渋者軒数

表176 安政6年(1859)の福井藩の難渋者軒数




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