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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      処女航海
 安政六年二月二十四日隆佐が敦賀へ出発、二十八日には弥五左衛門が西方経由で出立、三月二日には箱館行きの荷物も送り出された。この年は風向きが良くなかったらしく、大野丸は予定よりやや遅れて三月二十一日敦賀湊を出航した。「此日天気朗晴、唯好風を得ず船脚渋滞」と隆佐は日記に記している。
 それでも大野丸は快調に北上し、二十二日には加賀本吉沖から能登猿山沖を通り、二十三日輪島沖、二十五日に佐渡沖を通過、早くも二十八日には松前城下が見えてきた。そして三月二十九日箱館に入港したのである。陸路に比べて格段の速さであった。上陸した一行は弁天町の大野屋へ入った。

表171 大野丸の箱館往復

表171 大野丸の箱館往復
 大野丸のその後の航海は表171のとおりである。隆佐は用意が整えば一年に「五度位は上下出来」を目論んでおり(「内山隆佐書状」内山良治家文書 資7)、この他にも往来したかと思われるがはっきりしない。操船術も上達したのであろうか、徐々に所要日数が少なくなっていることが認められる。万延元年(一八六〇)一月には吉田拙蔵が、大野丸上乗諸事取締方に任じられた。文久元年三月の航海には、福井藩士千本弥三郎などが同乗している。毎年冬から春にかけて敦賀に繋留され、修理や翌年の準備が行われたが、この時大野から船番が遣わされるのが例であった。なお箱館に着いた大野丸は、ここに繋留されていたわけではなく、蝦夷地の物産を求めて縦横に動いており、遠く北蝦夷まで行くこともあった。
 隆佐は右の書状で、今年はともかく来年からは「損失」が出ることはなく、大野屋と大野丸・奥地開拓がうまく噛み合えば、結局「大利を得」ると予測している。しかし大野丸で運ばれた物産や利潤などの実際については、なおこれを明らかにすることができない。「内山隆佐手留」に、「大野丸積荷」として、酒四斗入り二〇樽、塩四三七五俵、和三盆白砂糖九〇〇斤半、天草黒砂糖二四七五斤、七島筵一〇〇束、鯨二七六斤などとあること、「交易可試品」として、晒蝋・油・獺皮・煙草・大豆・鹿皮・ぬめり・人参・生糸・黄蓮などが挙がっていることなどから、ある程度は想像できるであろう。ただ晒蝋の部分に、安政六年の下関相場が一斤につき銀三匁二、三分、箱館売りが銭七五〇文と注記があるから、単純計算だとかなりの利益となる。また隆佐の日記の文久三年十月十三日条に、河合誨蔵が大野丸から金一〇〇〇両持参ともみられる。
 このように大野丸は大野藩の財政には少なくない貢献をしたのである。しかし、元治元年(一八六四)八月二十四日箱館を出帆し、「エトローフ場所」へ秋味(鮭)を積取りに行く途中、二十八日の夜「ネモーロ(根室)沖」で座礁して沈没してしまった。乗員は伝馬船で避難して全員無事に上陸、十月五日ようやく箱館に辿り着いた。その報告は誨蔵によって十一月二十六日大野にもたらされているが、日数がかかったのは誨蔵が陸路をとったからである(「御用留」土井家文書)。



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