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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      大野丸の進水
 右に述べたように大野藩の蝦夷行きは、他所の船を借り上げるか陸路をとる以外になかった。いうまでもなく海路と陸路とでは所要日数と運搬能力が絶対的に異なるから、越前と蝦夷地の往復や物品の輸送には是非とも船が必要であり、「異国形」で数本のマストを持ち、「江戸ヨリ箱館ハ勿論、大坂并在所越前浦、北海筋ヲモ通航」し、「土人共渇望ノ物品并粮米等積送」(「北蝦夷地開拓始末大概記」)できるような藩船の建造が急がれたのである。
 安政四年一月十一日隆佐が洋学取調用掛に任じられて出府を申し付けられ、二十八日出発しているが、目的が船製造のためとされている。先に述べた五年四月の伺書には、去る春から「君沢形船」の製造に取り掛かったとある。六月十三日には吉田拙蔵が、幕府の海軍所で学ぶために江戸に向かった。九月にいったん帰国した隆佐は、十月に再び出府するが、川崎稲荷新田に設けられた造船所へ出張することが多くなった(「御用留」土井家文書)。「村垣淡路守公務日記」(『幕外』附録五)に、安政四年十一月頃箱館御用達(栖原長七)が製造する船が、利忠の「手船ニ譲渡」することについての伺書が出たとある。
写真159 大野丸艤装完成図

写真159 大野丸艤装完成図

 二本マスト、スクーネル(スクーナー、君沢形)型の大野丸が進水したのは安政五年六月である。入用はほぼ一万両といわれ、大藩でもできないことを小藩が成し遂げたので、「出群の所置」と称されてもいる(『幕外』二四―二二一)。川崎から品川港へ回して艤装をすまし、弥五左衛門と拙蔵も乗り組んで八月六日品川を出航した。「暴潟病」が流行したためしばらく浦賀に停泊したあと、赤馬関を通って九月二十四日敦賀へ着船し、翌年三月まで繋留して蝦夷地下航の準備に入った。大野丸の敦賀入津が伝えられると、小林元右衛門等重役連中が次々と見物に敦賀を訪れている。なお船名は、安政六年五月二十七日付隆佐書状(内山良治家文書 資7)や「御用留」(土井家文書)には、はっきり「大野丸」と出ているが、文久三年(一八六三)十一月幕府外国掛において取り調べた「諸家手船調」によると、土井利恒の手船は「無船名」とある(『杉浦梅潭目付日記』)。
 十月には、藩士および町在の男子で一五歳以上二五歳以下の者を対象に、乗船志願者の募集が行われ(『柳陰紀事』)、十二月には三国湊の津田吉右衛門配下の船頭佐七郎を、「仮船頭」として一年に五両の給金で召し抱え、別に船頭手当金も「売船同様」に渡すことにしている(「内山隆佐手留」)。なお佐七郎は、安政六年正式に召し抱えられ、翌年正月から三人扶持を賜り、手当金一五両も与えられた(「御用留」土井家文書)。



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