目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      大野藩の意向と幕府の回答
 隆佐が伺書を幕府(箱館奉行堀織部正)に提出したのは、安政三年一月十六日のことであった(「北蝦夷地開拓始末大概記」)。そのことは翌十七日に仕立てた江戸からの「御用状」で、二十五日には大野へもたらされた。大野藩の伺いに対して幕府は、一月二十七日に「付ケ札」を付して回答したが、伺書と回答の内容はほぼ次のごとくである(『幕外』一三―一四八)。
我が藩では藩主利忠の言付けもあって、及ばずながら漢学・蘭学のほか西洋流の兵学・砲術・築城術などを研究してきたが、それは学問のための学問ではなく、実践するのが日本のためと思っているからである。一方大野の地は、北寄りで山間極寒の地であり、毎年五、六尺(一メートル五〇から八〇センチメートル)から一丈(三メートル)の積雪がある。我々はこのような寒土に生まれ育ち、雪中を厭わず山川を跋渉して漁猟をしているので、肉体は頑健だし寒さにも馴れている。いい機会なので是非とも蝦夷地に行き、公儀や主家のために働きたいと思い、利忠に申し出たところ許可を得た。「赤心を吐露」し、次のことについてお伺いしたい。
伺:幕府のいう蝦夷地開拓の目的は、利益の追求ではなく防御のためであり、併せて「不毛の地」を「有用の地」に転換するためと拝察する。「防御ヲ専一」にするからには、要塞や武器弾薬の準備などあらかじめ手筈を整えておかねばならない。幸い我が藩では一〇年前から大砲を鋳立て、小銃などを作る職人も数十人抱えており準備は整っている。
答:目的はその通りである。防御については箱館奉行の指図を受けられたい。
伺:蝦夷地へ農業・鉱業・林業・漁業などの巧者を送って、利忠の家来が一手に引き受けてよろしいか。
答:結構である。
伺:物産の生産が上がってきても一五年から二〇年は運上を課さない用意を幕府はお持ちか、目先の小利を求めると大利を得ることはできない、彼の地で生まれた子供が成長して「土着」するくらいの期間をとり気長にするべきだ。
答:年数は決めかねるが、場合によっては年限の延長もありうる。
伺:金銀銅鉄なども出ると思われるが、我が藩には面谷銅山などがあり、採鉱には馴れている。もし盛んになれば費用も多く掛かるが、その時拝借金なども可能だろうか。
答:様子によって考える。
伺:大野から江戸までの費用は我が藩で負担するが、江戸から蝦夷地までは「御用旅行」扱いとし、費用や人馬を公儀から出して下さるか。
答:軽い手当は出すが、人馬を出すわけにはいかない。
伺: 大野から江戸を経由して行くのは不便であり、無駄な費用も多く掛かるので、西方浦もしくは福井藩の三国湊から、直接船で松前まで行ってもよろしいか。
答:結構だ、ただし船改めは受けること。
伺:「惣督」として行った者が段取りを付けて、あとを「次官」に任せて帰国し、時々見回るくらいでもよろしいか。
答:かまわない、ただし交替なども含めて費用は自分で負担のこと。
伺:右のことなどについて指図を受け、国元とも連絡して蝦夷に行きたいと思う。ただし我が藩は小藩で財政的に余裕があるわけではないので、しっかり見定めた上で決めたいが、手に余るほどであれば拝借金を願うこともお含みおき頂きたい。
答:「自分入用」が幕府の方針であり、前もっての約束は致しかねる。
 続いて一月二十九日には、定府の留守居札守右衛門の名で、東蝦夷地は「ヤマコシナイ御境目より、アブタ領シヅカリ御境目迄」、西蝦夷地は「クトウ御境目トウタザワより、シツキ御境目モイワ迄」の、開墾と金銀鉱の試掘を願い出た。これへの回答は二月三日にあり、江戸では指図しがたいので、実地見分に行った者が改めて箱館で伺うように、見分に行く分には一向差し支えないということであった(『幕外』一三―一四九)。
 大任を果たした隆佐は、一月晦日江戸を発ち、二月十日大野に着いた。十七日には、家老小林元右衛門が蝦夷地用掛に任じられたほか、七郎右衛門が「容易ならざる御大業」といって年寄・蝦夷地用掛に、隆佐が「抜群の功労」をもって年寄・蝦夷地惣督に任命された(「御用留」土井家文書)。ここに兄が「内ヲ治メ」、弟が「外ヲ務メ」る(『柳陰紀事』)体制が出来上がったのである(表165)。



目次へ  前ページへ  次ページへ