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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      幕府の北方政策
 安永七年(一七七八)ロシア船が根室半島のノカマップに来航して松前藩に交易を求めたあと、寛政四年(一七九二)にはロシア使節ラックスマンが国交を求めて根室に来航し、文化元年(一八〇四)にはレザノフが長崎に来て通商を求めた。幕府は鎖国を盾にこれを拒否したが、蝦夷地における海防の必要を感じて、天明六年(一七八六)最上徳内に、寛政十年には徳内と近藤重蔵に千島を、さらに文化五年から六年には間宮林蔵に樺太や沿海州を探険させた。
 他方幕府は、寛政十一年松前藩から東蝦夷地(太平洋側)を取り上げて七年間の直轄地とし、書院番頭松平忠明等に巡視させ、盛岡・弘前両藩にその守備を命じた。享和二年(一八〇二)には箱館奉行を置くとともに、七年間の期限を廃して永代上知とした。文化二年には諸大名にロシア船の警戒を命じ、目付遠山景晋等に西蝦夷地(日本海側)を巡視させ、同三年盛岡・弘前両藩をして守備に当たらせた。四年には西蝦夷地も上知して蝦夷地全域を直轄地とし、五年には仙台・会津両藩に守らせた。このような動きを経て、蝦夷地の幕領化、内国化が進められたとされているが、それは先住アイヌの意志にかかわりなく強行されたのである。
 この間ロシアとの間に小競り合いが続いていたが、文化十年のゴローウニン事件で好転したこともあって、幕府は文政四年(一八二一)十二月蝦夷地全域を松前章広に返すとともに、盛岡・弘前両藩を撤兵させた。この時章広に復領後の警衛について厳しい沙汰があったという(『続徳川実紀』)。
 その後蝦夷地には外国船の来航や漂着が見られたが、嘉永六年(一八五三)六月ペリーが浦賀に、七月にはロシア使節プチャーチンが長崎に来航した。翌安政元年(一八五四)三月の日米和親条約によって箱館と下田の二港が開かれ、六月に幕府は箱館とその周辺を上知して箱館奉行を置いた。十二月にはプチャーチンとの間で日露和親条約が下田で調印され、箱館・下田・長崎を開港するとともに、エトロフ島とウルップ島の間を国境と定めたが、カラフトは「界を分たす是迄仕来通」りとし、国境線は引かれなかった。
 なお箱館奉行は、安政三年七月「魯西亜と接界之地、北門之鎖鑰」というので三人に増やされ、一人が江戸、二人が蝦夷地に在勤し、一人ずつ蝦夷地全体を「巡撫」し、夏には北蝦夷地(樺太、サハリン)まで渡海して取締りに当たるものとされた(『大日本古文書』幕末外国関係文書之十四、一九二号、以下『幕外』一四―一九二のように略す)。
 ついで安政二年二月には、東は木古内、西は乙部まで、「島々共一円」上知され(『続徳川実紀』)、翌月その警衛が松前藩のほか仙台・秋田・津軽・南部藩に命じられた。十月十二日に蝦夷地を来春請け取ることが決まったあと(『幕外』一三―四五)、十四日にいわゆる「蝦夷地在住」のことが触れ出されたのである。
 内容は、蝦夷地を上知したので、荒地開発のほか、野馬牛牧養、食料・薬用の生育、金銀銅鉄鉛や石炭の採掘、材木・草木の伐採や植付け、捕鯨、港への茶店の設置など、およそ生産になることに従事したい者は、旗本・御家人、藩士、農工商によらず申し出よ、国益になるほどの成果を上げれば賞詞・手当もあろうというものであった(『幕外』一三―四六)。十二月四日には老中が、蝦夷地「開拓」が行き届くよう箱館奉行を督励している(同九五)。
 大野藩が蝦夷地「開拓」に名乗りを挙げるのは、ちょうどこのような時だったのである。



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