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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    三 松平慶永の幕政改革
      慶永の京都守護職就任
 元治元年一月十五日二度目の入京を果たし、同二十七日に参内した将軍家茂は、位階昇進の沙汰の後、宸筆の勅書を拝受した。その直書は前述のように薩摩藩の意向を強く反映したものであったから、「長門宰相の暴臣の如き、其主を弄愚し、故なきに夷船を砲撃し、幕使を暗殺し、私に(三条)実美等を本国に誘引す。此の如き狂暴の輩は必ず罰せざるべからず」(『続再夢紀事』)との、激しい長州藩排撃の一節が含まれていた。しかし、この勅旨によって、幕府の長州処分の方向は明確になったといえる。
 幕府は総力をあげて長州を制圧するため、昨年八月十八日の政変以来声望高い松平容保を京都守護職から解任し、二月十五日軍事総裁職に任じた。そして京都守護職には、慶永を説得して就任させた。この人事は慶喜の画策したものであったが、当時慶永に対する幕府要人の評価は険悪であり、長くその職に留まることは困難であった。慶永が同じ朝議参預の薩摩・土佐藩などと結び、雄藩連合を唱えて幕権の失墜に加担し、また、その開国論は目下の朝幕の方針に反していると批判したのである。幕閣中にも慶永や福井藩人を、「越の奸」「例の狡猾」(『続再夢紀事』)などと悪しざまに評する者があり、守護職に属すべき新撰組なども、福井藩の支配に入ることを喜ばなかった。
 四月七日、右のような反発の中で京都の治安維持に責任を負えぬことを悟った慶永は、八方に歎願して辞任を許され、同十九日なお政情騒然たる京都を去って福井へ帰った。
 慶永がこの滞京中、旧来の幕府の権威に固執する幕閣や諸有司を覚醒させ、実現しようと努力したのは、政体の一新であった。すでにいかなる手段を施しても、幕府単独で国家の安定を保つことは不可能である。真に国家の命運を憂慮するのであれば、幕府は一己の私を捨て去り、親藩・外様の別を論ぜず、広く雄藩の力を結集し、何事も公武協調の上、万民が安堵し得る政体を起立しなければならぬというのが、一貫した慶永の持論であった。そうした慶永の考えは、この滞京中元治元年三月一日付で幕閣に提出した意見書(『続再夢紀事』)に、よく示されている。



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