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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    一 慶永の襲封と改革
      倹政の推進
 前述のような藩財政復興の努力の中で、最も中心的施策として厳格に実行され、確実な成果を収めたのは、藩政万端にわたる倹政の推進であった。天保・弘化年中、その立案と実行の中心に立ったのは、勝手掛や簡略取締用掛に任じられた中根雪江であり、その著『奉答紀事』の中では、慶永の襲封から安政五年(一八五八)の隠居に至る二〇年の倹政が、大きく左記の五次に分けられている。
  第一次倹政(天保十年〜嘉永二年)
  第二次倹政(嘉永三年〜同四年)
  第三次倹政(嘉永五年)
  第四次倹政(嘉永六年)
  第五次倹政(安政元年〜同五年)
 各時期それぞれに注目すべき施策が少なくないが、中でも第一次の改革は、水野忠邦による幕府の天保改革に呼応し、その後の福井藩の倹政の基本となる方針を固めたものであるから、その主要な内容を『奉答紀事』から抄出して、箇条書にしてみる。
 (1)天保十年二月、藩士一統へ半禄を命じる。
 (2)同年十月、慶永の手許金を一〇〇〇両から五〇〇両に半減する。
 (3)同十一年三月、家中の衣服・振舞・音物(進物)などにつき、倹約の制を令す。
 (4)同年七月、慶永江戸城登営の際の供連を減員し、その衣服も綿服とする。
 (5)同十二年四月、家中半禄を免じ、一〇か年の日懸銀調達を命じる。
 (6)同十三年、一藩の風儀を享保期に復すこととし、簡素倹約の事例数百におよぶ。また、幕府への定例の献上品を、五か年の間停止することを願い出る。
 (7)同十四年、慶永初入国に当たり町在からの献上物取扱いを厳正にし、金穀の類は各町郡の役所に分配して、窮民救済に充当する。
 (8)弘化元年七月、四か年の半禄を令し、六〇〇石以上の地方知行を蔵出に改める。慶永自ら着衣を綿服・葛棧留袴とし、食事も朝は香の物ばかり、昼は一汁一菜、夜は一菜のみなどと定め、その履行を士民に誓約して、家中一統の協力を要請する。
 (9)同年十月、五五〇石以下の蔵出知行を、村方より藩蔵所へ直納と改める。二七か条にのぼる家中服制を定め、その完全実施に一〇年を期する。
(10)同四年、江戸における慶永の供連をさらに減員し、総員木綿の絞付を着し、その簡素ぶりが府下の評判となる。
(11)嘉永元年、家中一統一汁一菜、祝宴などでの酒肴も三品までとするなどの厳重な飲食の制を令す。
 橋本左内筆「安政丙辰日記」(『橋本景岳全集』)の安政三年四月四日条には、次のような記事がある。
御留守〆切ニ付、三千金余之御倹約ニ相成候由、御家老詰と御附返しの御省略ニて、八百金も達ひ候よし、御国ハ……歳入四万金位と申事、御先代様の頃ハ歳費十二万位ニ相成居候ト申事、当今殊昨卯年ハ三万位ニて相済候由、
 「御留守〆切」とは、慶永在国中の江戸藩邸に、必要最小限の人員を残し、従来のように家老も置かず、表門も締切りとしたことを指している。当時の倹政の一端であるが、それによって三〇〇〇両余の倹約になったというのである。また、先代藩主の頃一二万両を要した歳費が、安政二年は三万両程で済んだとの記述も、厳しく徹底した倹約政治が安政期に至っても続けられ、成果を挙げていることを示すものとして興味深い。



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