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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
    一 心学
      心学者の廻村
 石田梅岩に始まる石門心学は、社会の中でその地位を次第に向上させつつあった町人の間に生まれた人生哲学である。心学は、武士として、商人として、百姓としての道を説いたが、梅岩のあと、門人手島堵庵・中沢道二・上河淇水・柴田鳩翁等によって広められた。
 十八世紀後半になると、心学は広く人々に受け入れられ、全国各地にその講舎が設けられた。舎では心学の講究討論や道話などがなされたが、地方の舎の中には講師がいない場合が多く、京都や江戸の著名な心学者を迎えて道話の会が行われた。また、心学者の巡回等によって普及した地域もあった。なかでも、柴田鳩翁や奥田頼杖は文政(一八一八〜三〇)の頃から年々各地を巡歴した。彼等は巧みな道話で、人間の本性とそれに基づく身近な道徳を、百姓・町人の妻や子供にいたるまでわかりやすく説いて、大きな感動を与えた。
 小浜では手島堵庵在世中から心学が普及しており、文化七年(一八一〇)春には京都から入江弥左衛門が来ている。翌八年閏二月、森川小野八(一甫)は藩命をうけて、堵庵の門人久世友輔・中沢道甫等を招いた。道甫は六月二十日まで滞在して、町在で道話を行った。小野八は同日、藩命で心学の修行に京都へ行き、九月に明倫舎の免状を得て帰国した。さらに九月二十一日に再び京都へ出かけ、十月中頃に帰国し、以後家中や百姓・町人を相手に道話を行っている(森川譲治家文書)。この頃、小浜藩主酒井忠進は京都所司代であった。
 文化九年五月に小浜へ再び入江がやって来て、小野八とともに領内で道話を行った。このことを聞いた鯖江藩領の大庄屋たちは、翌十年正月入江を招くため京都へ使いを出している。この時、「御上様」の書状も携えていた(窪田家文書)。この甲斐あって、入江は三月七日から十日まで鯖江で講談し、その後領内の「六ケ組」を廻り、四月十七日に鯖江を離れた(福岡平左衛門家文書)。六月九日には大庄屋たちは鯖江へ集まり、これにかかった費用の割り方を行っている。なお、入江にあわせたように三月十四日には、遠敷郡麻生野村の武田小兵衛がやって来ており、門人が約一二〇人できたとされる(窪田家文書)。その後、入江は同十四年三月、大野藩領で道話を行い、四月には求めに応じて勝山三町にも出かけた。さらに文政三年四月、大野藩領を廻村した(福井大学附属図書館文書、水上芳捷家文書)。
 森川小野八は、文化十年十月には明倫舎諸国当添状と三舎印鑑をもらい心学者としての資格を得て、若狭以外へも道話に出かけている。その活動範囲は越中・加賀・越前・丹波・近江・山城・河内・摂津・和泉・紀伊・美濃・尾張そして江戸ときわめて広い。以下文化年間の越前での道話を追ってみよう。
 小野八は文化十一年正月小浜を立ち、敦賀郡・新御領(今立・南条郡の小浜藩領)・府中・福井・金津・三国と廻り、四月五日小浜に戻った。さらに七月二十四日に再び越前に向けて出発し、福井・大野・勝山・金津・三国と廻った。福井では寺院で講談したほか、家老の本多筑後を初め家中へも講談を行っている。このとき、福井の町奉行から金一〇〇〇疋、金津の役所から金四〇〇疋が与えられたほか、大野や勝山においても礼金が出された(森川譲治家文書)。勝山三町では九月二十八日・二十九日の両日「心学披露」がなされている(仙田昇家文書)。小野八は福井藩から来春の廻村依頼をうけ、十一月に福井を離れた。この廻村依頼は敦賀町奉行所を通じて小浜藩に届けられた。翌十二年正月小野八は再び福井へ出かけ、家中へ道話を行い、二月から六月初めまで領内を廻村した。藩主松平治好から白銀一〇枚を頂戴して六月下旬帰宅している(森川譲治家文書)。なおこの廻村は大庄屋組ごとに実施されたようで、小野八は二月十四日には坂井郡荒井村へ来ており、その後同郡小幡村・蓑浦・大丹生浦・石橋村・波寄村・上野村・浄土寺村を廻り、二十二日からは同郡泥原新保浦、吉田郡町屋組・原目組・松岡組・清水組、大野郡富島組を廻り、三月半ば過ぎには中領へ移っていった(赤井富士雄家文書)。
 その後小野八は、文化十二年八月下旬から幕府領福井藩預所の村々を廻り始めたが、母急病のため途中でやめて小浜に戻り、翌十三年二月から五月にかけて、前年やり残した村々を廻った(森川譲治家文書)。



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